天皇機関説と国民道徳

世の学生の例に漏れず期末試験対策でちょっと忙しいのだが、そうすると、まったく緊急性の無いことを調べたくなるのが人情というものである。そこで今回は、明治四十五年に雑誌『太陽』に掲載された美濃部達吉「上杉博士の「国体に関する異説」を読む」を通して、天皇機関説問題について考えてみよう(意味の無い前置き)。

前号の本誌に掲載された上杉博士の論文「国体に関する異説」に対して、爰(ここ)に一言の弁解を為すの已むを得ざるに至ったのは、余の甚だ苦痛とする所である。(中略)即ち博士は余を以て、天皇国を統治するの大義を否認し、万世不変の我が国体を無視するものとせられて居るのである。

引用者(tukinoha)は上杉慎吉の「国体に関する異説」にも目を通したが、ここでは「機関」という用語について、機関とは全体に奉仕する家来であり使用人なのだから、それを天皇に当てはめるのは不敬である、という非難がなされている。
しかし、用語の問題は全体の論を補強するために持ち出したに過ぎず、それを問題の本質と見ることは出来ないだろう。次に最も重要な部分を引用する。

余は穂積博士其の他多くの学者と同じく、国家を以て一の団体であるとし、此の団体が法律上の人格を有し、統治権の主体たることを主張するものであるが、其の意味は決して上杉博士が言ふが如く人民が統治権の主体なりと為すものではない。団体の本質に就いては、『憲法講話』に於ても大要の説明を試みた通り、「目的を同じうする多数人の組織する結合体」をいふのであって、之を国家に就いて言ふならば、国家が一の団体であるといふのは、君主も国会も一般臣民も皆共同目的を以て相結合し、其の全体を以て組織的の統一体を為しているもので、君主が統治権を行はせらるるも、君主の御一身の為にせらるるのではなく、全団体の為にせらるるのであることの思想を言ひ表はすものに外ならぬのである。故伊藤公爵の『憲法義解』第一条の註に「君主ノ徳ハ八州臣民ヲ統治スルニ在テ一人一家ニ亨奉スルノ私事ニ非ズ」と曰ひ、又「一国ハ一個人ノ如ク一国ノ彊土ハ一個人の体躯ノ如ク以テ統一完全ノ版図ヲ為ス」と曰つて居るのも畢竟同一の思想に帰するものと思ふ。

ここで天皇機関説の前提となる国家法人説の説明がなされている。少し補足すると、例えば天皇主権説を採った場合、外国との条約は天皇個人の契約となり、国家財政は皇室の財産と同じものと見なされるだろう。しかし実際はそうではなく、条約は国家間で結ばれ、国家財政と皇室財産とは厳密に区別されている。それを正当化するには、統治の主権は法人としての国家そのものにあり、天皇はその最高機関とする必要があった。そういった点も、天皇機関説が通説と見なされていた理由のひとつとして挙げられる。

上杉博士は其の自ら祖述すと称せられて居る穂積博士の所説とは正反対に、国家が一の団体であるとするの説を否定し君主即ち国家なりとせられて居る。(中略)若し此の説を是認するとすれば、国民の繁栄幸福は国家の盛衰とは何等の関係もなく、国民は如何に貧しく如何に衰へたりとも、国家の富強は少しも之が為に妨げらるることは無いものと言はねばならぬ、余は之に反して国民は国家の間に在り、国家を組織する一分子たりとなすものである。

この辺りまで読めば、天皇機関説および国家法人説がどのような国家観および国民(臣民)観に基づいているかがわかるだろう。つまり、忠良な臣民の奉仕に支えられる国家を基本とし、国家は豊かだが国民は貧しいという状況を是認した(あるいは見過ごした)上杉らの天皇主権説に対し、美濃部ら天皇機関説においては国民の繁栄が国家の繁栄に沿うものとして捉えられているのである。政治の目的は一般民衆の幸福にある、とする民本主義の考えとも極めて近い。
こういった点を踏まえて考えると、両者の思想的対立軸として国民道徳についての考え方の違いが存在しているように思われる。大正九年茨城県の中学校長が、国民は自らの目的達成のために働くべきであり、国家は国民に犠牲をしいてはならない、と講演会で発言したことを咎められ辞職に追い込まれた「自由教育論争」にも通じるものがあるだろう。
大正デモクラシー期における重要な政治課題とは、、急激に膨張した都市生活者や地方名望家の影響力が低下した後の農村の住民とした「新しい人々」をどう位置づけるか、ということにあった。そのうちのひとつの考え方は、絶対的他者への奉仕としての社会連帯を促すものであり、それが国家レベルでは天皇主権説として、日常道徳のレベルでは教育勅語や戊申詔書が社会教育に組み込まれるという形で現れたのに対し、もうひとつの考え方はそういった観念論を排し現実的な感情に基づいて自己の目的を達成し、「結果として」国家の利益となることを目指す、民本主義や自由教育論といった形で現れた。後者の考え方にしても国家の利益と個人の利益が相反しないことが前提とされており、一般論レベルに留まるというべきだろう(吉野作造が民衆運動に対して冷淡なのもその問題に由来すると考えられる)。
個人の非理性的側面を取捨した美濃部や吉野らの国家論はそういった点から不自由さを抱え込まざるを得ない構造となっており、それに反対する側はこのオプティミズムの基盤となる「個人主義」的な傾向を強調した。大正デモクラシー期においては天皇機関説が通説とされ、昭和十年において天皇主権説に逆転されたことは、ある種の必然であったと考えられる。