竹内好について

ゼミの後輩が竹内好についての発表を行ったのを聞いて、個人的にも竹内の書いた文章を読み直してみた。中国へ兵隊として向かう直前に書かれた『魯迅』にはこうある。

魯迅の根本思想は人は生きねばならぬといふことである。それを李長之は直ちに進化論的思想と同一視しているが、私は、魯迅の生物学的自然主義哲学の底に、更に素朴な荒々しい本能的なものを考へる。人は生きねばならぬ。魯迅は、それを概念として考へたのではない。文学者として、殉教者的に生きたのである。その生きる家庭のある時期において、生きねばならぬことのゆえに、人は死なねばならぬと彼は考へたと私は想像するのである。

この、遺書というべき文章の中で、竹内は何を言おうとしたのか。「人は生きねばならぬ」。それはある意味、戦争への抵抗であったと言えるだろう。昭和九年に中国文学研究会を立ち上げるが、彼も、同人の多くもその中国へと出征していった。竹内が大東亜文学者大会への参加を拒絶したことは、戦争に対する内面での抵抗を表しているようにも思える。
その一方で竹内は、日米開戦に際して国民の大多数と同じように歓喜し、以下のように書いている。

わが日本は、強者を懼れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露がこれを証かしている。(中略)この世界史の変革の壮挙の前には、思えば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであった。

この文章に対し、松本健一は「大東亜戦争を肯定することで日華事変を叩いた」としているが、僕には同意できない。アメリカと戦争が始まったからといって、中国との戦争が終わったわけではないからだ。それを「一個の犠牲」として片付けるところに、竹内の弱さを感じる。松本は竹内を、情勢に対決させて自身の思想を磨くタイプだと考えているようだが、情勢に流されるというか、ポジショントークというものをもう少し考慮に入れたほうがいいのではないか。竹内が「戦後」に対して抱いた違和感というのは、こういった自身の経験から出発しているのだろう。


魯迅』の話に戻る。竹内が魯迅に傾倒したのは何故か。学校の教科書には魯迅の「藤野先生」が載っていて、日本人の多くは魯迅を進歩的な人物だと考えている。しかし実際は逆で、彼が「古い人間」であり、啓蒙家としての役割にも懐疑を抱いていたから、という。「彼は旧時代を攻撃しただけでなく、新時代をも恕さなかったのである」。新しいものを無条件に取り入れる「進歩」に対する抵抗の精神を、竹内はアジア的なものと考え、その典型を魯迅にみた。そのため、日本が「アジアの盟主」たろうとしたとき、竹内が日米開戦時に抱いていた希望は消えさったのではないだろうか。日本だけがそのとき、理念としてのアジアではなかったためである。
もう少し「抵抗」について考えてみよう。終戦に際して竹内が嘆いたのは、内乱が起こらなかったことに対してであった。戦後の日本は戦前を否定することなしに、つまり天皇の位置にそのままアメリカが入り込んだ。「革命なき八・一五が戦後民主主義のはじめの日であるなら、それは畢竟革命ではない。革命とは外から与えられるなどというものではない。革命とは過去の一切を否定することであうのに、八・一五にあったのは過去の一切の忘却であった」。
過去を引きずり出し対決すること。それを経験しなければ、過去によって復讐されるだろう、と竹内は言う。私は竹内のことがあまり好きではないが、彼が北一輝大川周明といった「革命的」右翼を忘却から救い上げたことの功績は認めざるを得ない。
しかし、これは竹内に限った話ではないが、思想だけ、あるいは思想の中から都合のよい部分だけを取り出して「俺は過去ときちんと向き合ってますよ」という態度は、無視するよりもむしろ悪いだろうと思う。仮に北一輝の思想が、彼の思惑通りに進めば素晴らしい結果をもたらしたとしても、そうはならなかった。いや、そうはなれなかった。その歴史的事実を軽視するのは、結局その思想を社会的背景込みで構造的に捉える能力が不足しているのではないか。竹内が丸山真男に対して好意的なのも、竹内自身には社会を構造的に把握する能力が欠けていて、その力を持つ丸山に対して憧れに似た感情を持っていたためではないか、と思う。そして、竹内の社会に対する構造的把握を妨げるのは、彼の「生活者」としてのプライド、現実に没入することを良しとする考え方なのだろう。彼はその考え方により、現実社会を見下ろす「知識人」と違った思考様式を身につけた。しかし、それによって彼の考えは体系化されることなく、断片として残った。まあ、私にとってはあまり好ましい思想家ではない。


で、最初に書いたゼミの後輩の話に戻るが、彼の言うところによると、竹内は戦前から回教圏研究所に所属していて、そのイスラム知識を駆使して中国人の国民性について語っていたらしい。イスラム教は生活の隅々まで規定し、政治にも関係する。中国にもそんなイスラム教を信仰している人は一定数いるのだけれど、既存文化との対立を経て、まとまった中国文化として成立させている。歴史的にみても、中国は何度も異民族に征服されながら、逆に異民族を中国化してしまう。中国に対する竹内のこういった見方は、日本に対して逆照射されたことだろう。
明治維新を経験した日本人としては、王朝が変わっても総体として「中国文化」を維持してきた中国に対し、「成長がない」とか「節操がない」と馬鹿にするか、あるいはその適応能力を驚異に思うかのどちらかしかなかった。津田左右吉などは前者で、竹内や尾崎秀実は後者になるだろう。つまり、後者の立場から見れば、中国を征服したところで中国は中国のままであり、勝ったところで益はない、ということになるだろう。これも有効な戦争批判である。
しかし、戦後になって亀井勝一郎が戦前における後悔のひとつに、自分が中国についてあまりに無知であったことを挙げている。亀井に限らず、一般に戦時中の国民にとって、交戦国である中国の事情がほとんど知られていなかった。確かに各種雑誌の特集号やグラビア雑誌などで中国情報を載せてはいたものの、戦後になって知識人の多くが中国への無知を悔いている。それによって逆に、事態の深刻さを思うのである。

魯迅 (講談社文芸文庫)

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竹内好論 (岩波現代文庫)

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