若桑みどり『お姫様とジェンダー ―アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門』

タイトルに期待して損をした。問題提起としてはいかにも「初心者向け」という感じで目新しいものはなく、それでいてフェミニズム系、そしてジェンダー系批評において頻繁に見られる問題点がぎゅっと凝縮されたような一冊である。
ひとつは「自分語り」に対する過度の信頼。本書においては筆者自身の経験と女子大生からのリサーチにのみ基づき、職場においては抑圧され、男性との出会いによってそこから救い出されることを待ち望む「シンデレラ・コンプレックス」を持った女性像を「普通の女性」とみなし、そうでない女性を例外として切り捨てている。

女性がいまの状態でおかれているかぎり、女性に真のエリートなどいるはずがないし、いたらそれこそ怪物である。怪物に普通の女の子の気持ちが理解できるわけがない。
―本書55pより―

では、と反論するならば、19世紀ドイツに生きた経験のない筆者がどうしてグリム童話に描かれた女性について理解することが出来るのだろうか。この矛盾は明らかに、本来は差異とその表象について向けるべき洞察力を、「女の経験至上主義」へと横滑りさせている例であろうと言えるだろう。
次に、上のような経験至上主義による理論の機械的応用が問題として挙げられる。特に精神分析の無批判な適用。

さて、姫が十六歳のときに糸を紡ぐ紡錘で指を刺されて死ぬ、または眠ってしまうという事件については、当然性的な意味があると指摘されてきた。紡錘が男性性器であるということはまず疑いがなく、出血は処女の喪失であることも疑いはない。
―本書150pより―

「抑圧された個人」を扱うフェミニズムジェンダー系の論者にとっては、それと対置される「本当の自分」を教えてくれる精神分析が重宝されているようだが、いくらなんでも迂闊すぎはしないか。
もうひとつ、この手の論者は基本的に、大学や身近な人々からの圧力に耐えながら研究を続けてきたという経験を持つだけに、嫌なことを避けながらのんびり生きていこうという人に対する視線が非常に厳しいことも指摘しておこう。だが、社会に出て収入を得、ひとりで生きていけるようになることだけが「正しい」生き方なのだろうか?家庭の主婦を「自律していない」と見なすのは、それもまた差別的な考え方である。
ジェンダー理論が現代批評の中で欠くべからざる重要な地位を占めていることは疑いようの無い事実である。ただ、本書に見られるような「パッケージ化された知」が、ジェンダー理論本来の社会批評性と解放性を保ちうるのか、ということもまた問題とされるべきだろう。

日高敏隆『動物という文化』

動物という文化 (講談社学術文庫)

動物という文化 (講談社学術文庫)

生物学に関してはまるっきり素人の僕にもすんなりと頭に入ってくる、素晴らしい入門書。動物の体って上手く出来てるものだなぁ、と感心してしまった。比喩と類推を豊富に用いた文章は詩的で、斜め読みするだけでも十分に面白い。特に面白かったのは、神経が背中を通っているか胸を通っているかで脳の発達に違いが〜、という話。

節足動物の中枢神経系は、われわれ脊椎動物における脊髄とは反対側に腹側、つまり食道から腸とつづく消化管の下側を走っており、腹髄とよばれる。ところがどういうわけか、脳だけは背側、つまり食道の上側にある。そこで脳から出た左右一対の神経系は、どうしても食道を迂回して腹髄の出発点となる、脳につぐ第二の神経節(食道下神経節)につながらねばならない。
(中略)
多くの昆虫の、とくに親では、脳と食道下神経節は、形の上でもくっついてひとつの塊になっている。これが節足動物の脳なのだ。
本来は食道の上にあるいわゆる脳と、食道の下にある食道下神経節とから「脳」ができているというこのことが、肢のある文化に重大な制約をもたらすことになった。
つまり、どう考えてみても、「脳」のまん中を食道が貫いて走ることになるのである。外側にはこの文化の一つの基盤である丈夫なクチクラががんばっている。そこで、脳が大きく発達すればするほど、食道はしめつけられることになる。太ったブタであることがいやらなば、食物ものどをとおらぬソクラテスにしかなれないのだ。

「太ったブタであることがいやらなば、食物ものどをとおらぬソクラテスにしかなれないのだ」。ミルの『功利主義』を援用した言葉である。だからミツバチや蚊は、花の蜜や血といった、ドロドロの「流動食」しか食べられない。そう考えると彼らのことがずいぶんとストイックな存在に見えてくる。