明治と明治天皇

ミカド―日本の内なる力 (岩波文庫)

ミカド―日本の内なる力 (岩波文庫)

W.E.グリフィス『ミカド』を読了。面白かった。グリフィスが日本を褒めるのは、日本が西洋に似ているためであり、アジアに生きる人間のひとりとして少しむっとするところはある。ただ、「万世一系」批判や原始宗教と祖霊信仰の関係に疑問符をつけたこと(それは日本の「国体」に疑問符をつけるのにほぼ等しい)などは、当時の日本人には書けなかったことである。
とはいえ、現代の私たちにとって最も興味深い部分は、天皇の日常生活について記した箇所だろう。強調されていることは「日本人らしい」生活であること、そして質素倹約を旨とする「国民の模範」としての天皇の姿である。
ここ数百年の日本史の中で、周囲の人々から「名君主」としての役割を期待された天皇は、おそらく明治天皇だけではないかと思う。大正時代になれば政治機構が確立され、ひとりの有能な指導者が社会を変えていくという時代ではなくなってしまう。また、各小学校に配られた天皇の「御真影」が奉安殿という建物の中に深く秘められ、国民が天皇の姿を意識しながらも直視することが出来なくなったように、国民の生活と天皇の距離とがあまりに遠く離れてしまった。しかし、明治天皇の在位中は必ずしもそうではなかったようだ。


前近代における天皇とは、京都の町衆や芸能民たちによる民族的信仰の対象であり、現代の我々がイメージするような「日本の天皇」ではなかった、という指摘がこれまでに飛鳥井雅道氏など多くの論者によってなされている。それだけに、明治政府にとってはいかにして天皇の存在を国民に知らせるか、言い換えるなら天皇を見せるかということが問題とされたわけである。
その具体的な手段として、全国への天皇行幸や、先にも例として挙げた御真影の製作などが挙げられる。後者については、このとき描かれた明治天皇の姿が古代の天皇を描く際のモデルにされるなど、まさに「天皇の象徴」として国民に記憶された(もっとも明治天皇は自分が被写体になることを好まなかったそうだが)。
しかし、官僚制の整備は明治天皇という個人が果たした役割をひとつの制度として取り入れることを要請するようになった。例えば、明治44年紀元節に際して下賜された150万円の御内幣金とそれを基にした恩賜財団済世会の設立は、天皇の「聖恩」が社会機構の中に取り込まれていく象徴的な出来事であったと考えられる。

立憲政友会国史
「明治四十四年二月十一日紀元節に際し畏(かしこ)くも明治天皇は施薬救療の資として御内幣金百五十万円を賜つた、後ち世界大戦の影響を受けて経済上社会上並に思想上の急激なる変動を来し、その結果各種社会問題の頻出を見るに至つたので、西洋諸国に於て過去一世紀間に亘て発達せる社会的施設即ち生活の安定、労働者保護、失業防止、住宅緩和等を急速に実施するの必要を告げた」

天皇の個人的な人徳、才能にいつまでも依存しているわけにはいかない。次の天皇となる東宮はかねてから心身の弱さを不安視されていただけに、それはなおさらのことであった。
明治45年7月29日に明治天皇が亡くなり、その翌日から大正に改元されたことは、歴史の流れからすれば偶然の出来事に過ぎない。だが、それをひとつの時代が終わったことの象徴であると考えた人は決して少なくなかった。『こころ』の「夏の暑い盛りに明治天皇崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったやうな気がしました」という一節を思い出してみるのも良いだろう。


時代は下って大正9年、大正天皇の病状が「御倦怠の折節には御態度に弛緩を来し、御発言に障害起こり御明晰を欠く事偶々これあり」と公表された。
その一方で、新聞記者として関東大震災における朝鮮人虐殺を目にしていた夢野久作は人間の狂気についての考えを深め、畢竟の名作『ドグラ・マグラ』の構想を始める。明治天皇の死と共に、日常と狂気が混在する大正時代の幕が上がったわけである。
というわけで次回は大正天皇についての話。