世阿弥『風姿花伝』
- 作者: 世阿弥,野上豊一郎,西尾実
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1958/10/25
- メディア: 文庫
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とはいえ、僕がこういう本を読むのはもちろんアニメ批評に活かせる話はないか、という興味からであって、その観点から何箇所か抜粋してみよう。
「風姿花伝第二 物学條々」では面を付けないでする能「直面(ひためん)」の難しさについて語ったあと、特にそれは「この道の、第一の面白盡くの芸能なり」という「物狂ひ」において困難である、という話題に及ぶ。
直面の物狂ひ、能を極めてならでは、十分にばあるまじきなり。顔気色をそれになさねば、物狂ひに似ず。得たる所なくて、顔気色を変ゆれば、見られぬ所あり。物まねの奥儀とも申しつべし。
ああ、だからヤンデレはアニメ絵じゃないと映えないのか、なんて。
それはともかく、「直面」が難しいのは、「直面」で演じる役というのは「俗人」つまり普通の人であることが多いからだという。普通の人というのは、確かに難しい。リアルリアリティの話になってしまうのでここでは深入りしないが……。
音曲より働きの生ずるは、順なり。働きにて音曲をするは、逆なり。諸道・諸事において、順・逆とこそ下るべけれ。逆・順とはあるべからず。返す返す、音曲の言葉の便りをもて、風体を彩り給ふべきなり。これ、音曲・働き、一心になる稽古なり。
『花鏡』の「言葉より進みて風情の見ゆる」とほぼ対応する一節。いわゆる「先聞後見」というやつ。アニメだと、例えば「えっ?」という驚きの台詞を黒一色の背景に被せて、その後で驚いた表情を見せる演出だろうか。場面転換に先んじて音楽をかける、というのもよくある演出。
秘すれば花なり、秘せざるは花なるべからず、となり。この分け目を知る事、肝要の花なり。(中略)見る人は、ただ思ひの外に面白き上手とばかり見て、これは花ぞとも知らぬが、為手の花なり。さるほどに、人の心に思ひも寄らぬ感を催す手立、これ、花なり。
超が付くほど有名な一節。つまり、観客に「これから凄いことをやるらしいぞ」と期待させると無駄にハードルがあがるので、それと気づかせずに凄いことをやるべきだ、という話。ただ、たまには「いかにも凄いことをやっています」風の演出をして観客の目を覚まさないといけないんじゃない?とも考えられるか。