谷川道雄『隋唐世界帝国の形成』

隋唐世界帝国の形成 (講談社学術文庫)

隋唐世界帝国の形成 (講談社学術文庫)

今回は勉強のため、内容のまとめに徹します。
前漢においては武帝時代の外征に象徴されるように、漢族の支配による広大な版図が形成された。その際に捕虜となった異民族は内陸部へと移住させられ、漢族との同化を進めつつも不満を蓄積させていく。後漢に至ってそれが爆発。涼州を中心として羌族の大反乱が起こり、漢帝国はそのため衰退の道を歩み始める。
それと並行して、経済の発達により地方豪族が急成長を遂げる。彼らは地方に隠然たる勢力を持ち、国家利益としばしば対立する動きをみせた。加えて外戚・宦官の専横により、国家の私権化の傾向が強まる。礼教を重んじる儒教思想に基礎を持ち、長年国家の官僚として働いてきた士大夫層はそれを攻撃するが、ある意味では既存の国家制度に依存した彼らは社会の変化についていくことが出来ず、かえって弾圧を受けた。
黄巾の乱を経て後漢は崩壊。以後、隋が成立するまでの350年ほどの間、混乱が続くことになる。
そんな中で、豪族の中には山間部に「塢(う)」と呼ばれる独立したコミュニティを形成するものが現れる。塢は自衛・自給能力を持つコミュニティであり、そのリーダたちは形式化した礼教主義を批判し、自身の徳望によってコミュニティをまとめ上げた。彼らはその後も地域社会との深い繋がりを持ち、「郡望」とか「望族」と呼ばれるようになる。こういった人々が貴族階級として成長し、唐までの社会をリードした。
漢のあとに成立した魏では九品官人法を制定、各郡に中正という官を置き、管下の名士を推薦させた。中正はその郡の出身者が当てられることになっており、中正自身が「郡望」であることも多かったため、この制度によって国家人事に貴族階級の意向が強く働くことになった。その傾向は魏から晋へと進むにつれて強まっていく。
とはいえ晋が貴族国家であったとは言えず、皇帝の血族がそれぞれ軍を指揮する封建制をとっていた。そして内乱が起こり、それぞれの王族は異民族を味方につけようと内陸部に引き込む。その結果、中国は分裂。南部の東晋と北部の五胡(諸征服王朝)にわかれる。
北部では前趙後趙前秦と王朝が次々と生まれるが、いずれも短命に終わる。これらの王朝では漢族・胡族とを別々の官制によって支配する二重統治方式が取られており、加えて晋のように王族が軍を統治するなど、血族原理による支配という傾向が強かった。このような傾向は軍を組織し、国を建国するまでは有利に働いても、建国後は王族同士による内紛が生じやすい。
前秦のあとに中国北部を支配した北魏は、上のような欠点を克服するため部族制を解体。族長クラスに爵位と貴族身分を与え、漢族の貴族制に胡族側を取り込む形で、統一された貴族制を発足させる。しかし、貴族制が門閥化の傾向を強めたことから、それに取り残された一般の胡族軍人の反感を招く。軍政を敷いていた諸都市が反乱を起こし、北魏は東西に分裂する。
西魏は郡望たちに協力を呼びかけ、胡族の軍隊と郡望の軍隊を統合して府兵制という軍制を作り上げる。また、西魏における将軍は同時に政治家でもあった。これは先述した塢のリーダーのあり方とよく似ている。
そして西魏北周、隋へと交代するが、隋において中国は統一される。隋においても血族に代わる統治の原理として貴族制が採用されるが、門閥化を防ぐため、科挙の制によって「精神的な」貴族制へと変化することになる。また、魏の屯田制を引き継ぐ形で班田の給付が行われ、貴族による土地の私有も制限されることになる。
隋が対外遠征の失敗によって倒れた後、唐が成立する。唐もやはり対外遠征を行い、これに勝利するが、漢の時代のように同化や内地移住を迫るのではなく、族長クラスに唐の爵位を与えることで懐柔する方法を取った。首長たちは、部族の首長であると同時に唐の地方長官でもある。このような二重世界の容認をキビ政策と呼ぶ。


長くなったので再びまとめ。
「私有」の拡大、異民族の「同化」は古代世界を終焉に追い込んだ。異民族の側にしても、従来の血縁主義は安定した統治には不向きであることがわかってきたため、それに変わる普遍的な統治原理―貴族制―が志向されるが、それは門閥化と表裏一体のものでり、しばしば軍民の不満を招いた。
そこで課題となったのは、いかにして貴族としての徳望を備えた人材を確保し、同時に貴族による国家の私権化を抑えるかという困難な問題であった。隋において科挙の制が導入されたのは、その解決策としてであった。
また、隋唐帝国の形成は周辺の異民族が国家を形成するのとを並行して進められており、漢のように彼らを同化しようとするのでもなく、対立するのでもない別の統合策が求められた。それが唐のキビ政策であったといえる。
石母田正が『日本の古代国家』の中で「それぞれのクニ=共同体の中にまず「官」が成立するのではなく、それら相互の間に、または外国と接触する場にまず「官」が成立する」と書いているように、共同体外との接触から国家の形成を探っていくというアプローチには学ぶところが多い。
問題として挙げられるのは、やはり「貴族制」という言葉の曖昧さだろう。国家に癒着し、門閥化した家も貴族、地方名望家として君臨する家も貴族というのはどうかなぁ、と思う。