長谷川和彦『太陽を盗んだ男』1979
- 出版社/メーカー: ショウゲート
- 発売日: 2006/06/23
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しかし、この『太陽を盗んだ男』は別格である。薦めて頂いたマントラプリ氏には感謝しなければならない。向こう10年は邦画を観なくていい、と思える作品であった。それで褒めてるのかって?褒めてる褒めてる。あとはつまらなくなる一方だ、ということなのだから。
タイミングよく平野耕太が『HELLSING』最終巻でネタにしているので、引用してみよう。
核爆弾作って菅原文太脅迫する。
つまり、そういう映画。タイトルにある『太陽』とはすなわち原爆であり、それを交渉の材料にして、日本政府を脅迫するのである。『太陽』は日の丸、日本のことでもある。
原爆を題材にした作品としては『博士の異常な愛情』が真っ先に思い浮かぶが、あの作品とは異なり、『太陽を盗んだ男』の登場人物はみな冷静で、状況判断が的確である。主人公がやけっぱちになることもなく、追い詰められれば原爆をあっさり手放したりもする。主人公が包囲網を突破するところの頭脳戦や、警察が主人公を追い詰める場面のトリッキィさは見ごたえがある。
だが、なんといっても主人公の人物造形が秀逸である。単独で原爆を作り出し、国家を脅迫する彼には、驚くべきことに動機がない。国家を脅迫して何かが欲しいというわけではなく、ただ太陽を盗みたかっただけなのである。
国家が上から押し付けてくる力を、何らかの形で被治者のものとして造りかえていく運動をナショナリズムと呼ぶのなら、彼はたったひとりのナショナリストである。ただ、そのナショナリズムに実体はない。物語の冒頭で、主人公を含めた一行はバスジャックに遭遇する。犯人は警察に「天皇陛下に会わせろ」と要求するが、結局は射殺されてしまう。このときに見せた、主人公の冷淡な態度。「天皇抜きのナショナリズム」がここで示されている。では、国家権力との対決がテーマなのか?そうではないだろう。もしそうならば、菅原文太があれほどあっさり死んだ理由がわからない。やはり彼は目的のない、いや、何も持たないナショナリストと解するのが妥当だろう。
おそらく、現代に生きる我々の方が、1979年当時の人々よりもこの映画を観て感じるところは多いのではないか、と思う。僕たちは何かのために生きているだろうか?むろん、否定的な意味で言っているわけではない。「何かのために生きている」と思っているにしても、それは単なる思い込みであり、はっきり言って異常な状態だ。
かつて国家にも、国民全体の幸福という抽象的なものとは別に、「大東亜共栄圏の樹立」だとか「東洋の盟主」といった目的の存在する時代があった。そして、上は政治家から下は市井の知識人に至るまで、自己の正当性を主張するのに天皇が持ち出された。今はどうだろうか。安全/安心といった言葉に象徴されるセキュリティの問題に国民の関心は集中し、市民社会と国家を二項対立的に捉える見方は大きく後退した。現在のナショナリズムに中心はなく、その時々の危険/不安によって仮設されるそれがあるだけである。しかし依然として、あるいは昔以上に、国家は我々の身近に存在している。天皇もまた同様である。さて、現代において国家とは、天皇とは、我々にとって一体どのような意義を持った存在なのだろうか?考えてみよう。