丸山眞男『日本政治思想史研究』

某所で丸山眞男について報告したのだが、その際に使用したレジュメを、寝かせておいても仕方ないし、そもそも常識的なことしか書いてないので公開してしまおうと思う。レポートの題材にお困りな方はどうぞご自由にお使いください、という感じで。


その前に少しだけイントロを書いておこう。
『日本政治思想史研究』の頃の丸山真男に見られる方法論上の特徴は、単線的発展史観に基づく日本社会に対する「近代の未成熟批判」にある、と僕は思う。それはあくまでも「未成熟」なのであって、将来において近代化を遂げる可能性は既に内包されている、ということになる。ここにマルクス主義、というか講座派史観の影響があるのは確実だろう。つまり全ての国が一様に、(先進・後進の区別はあっても)同じ過程をたどって近代化を遂げるという考え方だ。それによって、過去の日本において存在していた、そして現在においても社会の中に隠されている「可能性としての近代」と「近代化を終えていない現代」とを対置させ、後者を批判しようというのが丸山の方法論であった。
しかし、旧植民地の独立と急激な近代化、それにともなう社会矛盾が噴出してくるに伴って、丸山はその考えを修正せざるをえなくなった。それだけではなく、戦後に封建的支配体制が取り除かれたにも関らず、一向に「近代社会」の形成が進まないことに苛立ちを感じた丸山は、それを妨害する「日本的なもの」「古層意識」を仮想的とし、それらに対する攻撃を行った。
このように、戦前の『日本政治思想史研究』と、戦後の『日本の思想』の間には方法論上の大きな違いが存在している。また、戦前の丸山を評価する人間からは、戦後の「古層」論が「普遍史としての近代」論からのあきらかな逸脱に見える。まるで丸山自身が「日本的なもの」の仮構を行い、再生産を繰り返しているように見えるからだ。とはいえ、『日本政治思想史研究』の場合も、一見すると分析的な研究の中である特定の要素を拾い出し、拡大し、現代社会に定着させようとする指向を持っているわけで、その意味では吉本隆明の「丸山の才能も欠陥も可能性も『日本政治思想史研究』の中にある」という評価は正しいといえる。
『日本政治思想史研究』はつまり、近世社会の危機的状況の中で思想家たちが育てた「近代的思惟様式」を、同じように危機的状況にある昭和において復活させようとする試みであった。その点では現在存在しているかどうかわからない過去の「負の遺産」を現代人に突きつけようとする『日本の思想』と同じやり方であると言える。そう考えると、やっぱり丸山の思想にぶれはないのだな、ということになる。「作られた伝統」論をやっている人たちの間で丸山真男の評判が悪いのは以上のような事情を考えれば当然なのだけど、ただ、「ひっぱたいて」終わりにしてしまうのはあまりにもったいない思想家だと僕は思う。
近代化論として読むと少し古く感じるのだけど、国家論として読むと、そこには極めて現代的な論点が多く含まれていることに気づかされる。ウェーバーもそうかな。シュミットも。彼らの秀逸なところは、政治とはつまるところ人が人を支配することであり、そこには何らかの暴力装置が介在されるということを直視していたことだと思う。
長くなったが、以下が報告レジュメである。

日本政治思想史研究

日本政治思想史研究

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

方法論・背景

  • 全体の主題

かくて徂徠学における公私の分裂が日本儒教思想史の上にもつ意味はいまや漸く明かとなつた。われわれがこれまで辿つて来た規範と自然の連続的構成の分解過程は、徂徠学に至つて規範(道)の公的=政治的なものへまでの昇華によつて、私的=内面的生活の一切のリゴリズムよりの解放となつて現れたのである。(110頁)

朱子学的思惟様式=自然法則と道徳の連続性
→その解体を通して「公」と「私」を分離独立させること、そして道徳からの切断によって「政治的なもの」が自立し、宣長学に至って人間の内面性が解放される。これらのことが「「近代的なもの」の重要な標徴」(107頁)となる。

  • なぜ丸山は近世社会の中に「近代的なもの」を見出す必要があったのか?

「近代の超克」への応答

市民は再び農奴となりえぬごとく、既に内面的な分裂を経た意識はもはや前近代的なそれの素朴な連続を受け入れることは出来ない。(189頁)

⇒近世〜明治にかけて培われた「近代的なもの」を歴史における不可逆的なものとして刻みつつ、それを拡大していこうとする試み。

私は広くは日本社会の、狭くは日本思想の近代化の型(パターン)、それが一方西洋に対し、他方アジア諸国に対して持つ特質、を究明しようと思った。(369頁)

西洋に対しては後発国、アジアに対しては先進国として、日本もまた単線的な「近代化」の途上にあると考え、その「未成熟」を批判。「西洋近代」と「日本的なもの」を対比させ、後者を批判するのではない。
⇒『日本の思想』において転換をとげ、「日本の古層」論を展開していくことになるが、この時点では「日本的なもの」は出てこない。


・「限界状況」における政治的思惟の呼び起こし
「かうしたオプティミスティックな思惟様式の分解の背後には近世社会のどの様な歴史的展開が存在してゐたであらうか」(115頁)
1.封建制の変化

室町末期以来の領主分国の拡大と地方武士の城下町集中とによつて、政治的支配が土地の事実的使用収益関係から浮き上がつたことは、封建制の重大特質の喪失をも意味してゐた。(121頁)

封建領主的な土地所有⇒統治とは「自分の」土地を管理することであり、私的な事柄としての側面が強い。
武士のサラリーマン化⇒統治が職分化し、公的な事柄となる。
2.貨幣経済の進展
元禄文化が農村まで浸透したことによる生活レベルの上昇、武士階級の窮乏と町人階級への財政的依存による、町人階級の地位向上。
⇒しかし、町人階級もまた武士による封建的支配の寄生者であり、市民社会を生み出す(ウェーバー的な意味の)資本主義精神を備えるには至っていない。
以上により、武士階級による封建的支配を前提にしつつ、深刻化する社会的危機に対処する政治的主体の存在が要請されることになった。

なんらかの社会的変動によつて支配的対場にあつた社会層が自らの生活的基礎を揺がされたとき、はじめて敏感な頭脳に危機の意識が胚胎し、ここに「政治的なるもの」が思惟の前景に現れ来る。しかるに他方社会が救ひ難い程度にまで混乱し腐敗するや、政治的思惟は再び姿を消すに至る。それに代つて蔓延するものは逃避であり頽廃であり隠蔽である。この中間の限界状況(Grenzsituation)にのみ、現実を直視する真摯な政治的思惟は存立しうる。(130頁)

間接的には当時の丸山が置かれていた状況を指し示している?
⇒中間の限界状況において現れる政治的思惟=近衛新体制か。

一体法則というのは反復性を本質とする。だからそれは同じ現象が繰り返される状態つまり安定状態を前提としている。一旦安定状態が破れて非常状態に移ると、もはや法則は多少とも妥当性を失う。具体的情勢に即した具体的処置のみが事態を救いうる。(中略)だから逆に言えば統制が経済法則を考慮しなければならない間は、その統制はたかだか旧経済機構の修繕の意味しか持たず、それ自身新しい経済体制樹立という「大事」の主体的媒介者たりえないわけだ。
従来の統制は客観的には前者の範疇に属するに限らず恰も後者に属するが如くに振舞ったところから色々の困難や摩擦が発生したのだろう。幸い近衛内閣の下に漸く後者的意味での統制確立の機運は熟してきた。(「或る日の会話」、『公論』1940年9月号)

⇒近世社会において培われた政治的思惟を、同様の「限界状況」において呼び起こそうとする試みか。


第三節「徂徠学の特質」

「今文を以て古文を視、今言を以て古言を視る。古文に其の心を用ふること勤と雖も、卒(にわか)に未だ古の道を得ざる」(弁明下)
⇒古の言葉そのものを知ることが目的だが、より積極的には「文辞」=具体的な事物と、それに対する「義」=解釈・意味づけとを分離し、前者を称揚することに特徴がある。

かくて宋学における大学・中庸中心主義は仁斎学の論語孟子中心主義を経て、更に徂徠学の六経中心主義へと移つた。かうした根本経典の時代的な遡及は、一方において聖人が一般人との連続性を断たれて益々絶対化する過程と、他方において、理学(朱子)より古義学(仁斎)へ、古義学より古文辞学へといふ、主観性――徂徠のいはゆる「私知」の暫時的な排除の過程と、それぞれ密接な照応関係に立つのである。それならばかかる古文辞学を通じて徂徠が描かんとする道はほぼどの様な輪郭をもつているか。(80頁)

朱子学的思惟様式により普遍化されていた「道」を、過去の「聖人」が制作した具体的、特殊な事実として捉え直す。
⇒我々とは切り離されたものであるため、「不可知性、神秘性が濃厚に前面に浮かび出るに至」り、「知」の対象ではなく「敬」の対象とされた。

  • 「道」の制作者としての聖人

つぎの問題はかかる本質と内容とを有する道をして道たらしめる根拠はどこにあるかといふことである。徂徠学の道は唐虞三代の制度文物の総称である。かうした一定の歴史的にかつ場所的に限定された道が何故に時空を超越した絶対的な普遍妥当性を帯びるのであらうか。(95頁)

1.道を創造した聖人によって道の正しさを保証させる。
2.聖人の正しさは道を創造したという事実によって保証させる。
⇒聖人および道の正しさはトートロジー的な閉じた関係の中で保たれ、道徳や自然、歴史的連続性といった一切の外部から切り離される。「聖人のいはばかうした彼岸性」(98頁)とはこのような事態を指す。

唐虞三代の制度文物はまさにそのザインのままにおいて彼岸的な聖人に根拠づけられたのであつて、なんら規範的な意味において絶対化されるのではない。従つて道が一定の時と処においてゾルレンとして作用するときは、夫々の具体的状況に応じた形態をとることを毫も妨げないのである。(99頁)

「道」は信仰の対象であり同時に過去の特殊な事例である以上、時代に合わせて作り直されるべきであるとし、それによって制度を改める政治的主体の存在を要請。

ただ道が天地自然の道とされてゐる限りは、換言すれば非人格的なイデアに窮極の根拠が置かれてゐる限りは、歴史は畢竟そのイデア――しかも道学的な――に合致するか否かといふ見地からのみ観察されるのは必然であり、従つてその歴史意識には本質的な限界が存する。(中略)道それ自体の窮極性を否定して之を古代シナに――複数的ではあるが――夫々一回的に出現した人格に依拠せしめ、その人格を彼岸的なものにまで高めることによつてはじめて此岸的な歴史は固定の基準の束縛を脱して、その自由な展開が可能になるのである。(100〜101頁)

1.「道」とは過去の聖人によって作られたもの。
2.「聖人の道乃至先王の道の本質はなによりも治国平天下という政治性に在る」(82頁)。
3.過去における具体的事例として「道」はあるので、それが現在において現れる際にも「礼楽刑政」という具体的な形をとる。
⇒「道」と自然法則、道徳との連続性が断たれ、「道」は政治という固有の領域として表出する。

  • 公私の分裂

公=政治的=社会的=対外的なもの
私=個人的=内面的なもの

理念型的に言へば一般に非近代的な、ヨリ正確には前近代的思惟様式はかかる意味における公私の対立を知らないのである。それは前近代的な社会構成そのものが――やはり理念型としては――この意味での公私の分裂を有してないことと照応してゐる。(107頁)

⇒徂徠学において初めて両者が分離。
徂徠学における「道」は礼楽刑政という具体的な形をとって現れるが、この場合の礼楽は「ひとへに政治的性格を帯びたものであつて、日常生活を規律する従来の煩瑣な「礼」とは峻別されてゐる」(109頁)。
⇒徂徠学における「非公的領域」への規範の不在。

さうして徂徠学においてリゴリズムから解放された自然的性情は当然に「風雅文才ののびやかなる方面へと流れて行つた。(中略)彼は政治においてまた歴史において道学的制約を排したと同じく、文芸の倫理よりの独立を宣言した。(110〜111頁)

公的領域における排他性が、同時に私的領域(非公的領域と言うべきか)における非規範性として現れる。
⇒公的領域から排除された朱子学や仏教といった「非治国平天下思想」も私的領域において存在を許された。


第四節「国学とくに宣長学との関連

  • 徂徠学との否定的関連

1.道と聖人
徂徠学における道⇒聖人が創造したという事実(=聖人の権威)によってのみ保証される。

しかしながら権威は権威を信ずるものにとつてのみ権威たりうる。徂徠学においては聖人の権威を信じない者にはもはや道の真理性を以て説得することが出来ない。(中略)しかもその聖人は古代シナに出現した政治的君主である。かうした歴史的―場所的に制約された人格の創造した道が何故しかく尊崇に価するのか。徂徠学は、儒教的思惟の殻内から一歩外に踏み出て問題を考へる余裕を持つ者を必然にこの疑問に誘致する。果して国学者はまずこの点を衝いた。(153頁)

「古代シナ」における特定の時代の君主がなぜ尊敬に値するのか?
宣長の「聖人」批判
「威力(いきほひ)あり智(さと)り深くて人をなつけ、人の国を奪ひ取て、又人にうばはるまじき事量(ことばかり)をよくして、しばし国をよく治めて後の法ともなしたる人を、もろこし人は聖人とぞ云なる」(直毘霊)
⇒徂徠が「道」の正しさを確認したのとほぼ同じロジックで、国学者儒教批判を行った。
2.「旧神道」批判
近世初期の「神儒合一」的傾向から、徂徠による「聖人の道」の絶対視によって、公的領域から「旧神道」が排除される。
→私的領域においては存立が許されていたが、太宰春台に至ってより徹底的に批判される。
同じように「旧神道」を批判していた国学者と「共同戦線」をはることに。
「荻生などが神道と云道なきこと也と云るは至極当れること也」(鈴屋答問録) 
「太宰が弁道書は予が心にははなはなだ道理也と思ふ也」(講後談)
⇒これらの「否定的関連」が国学の登場を準備した。

  • 徂徠学との積極的関連

宣長以前の神:宋学的思惟が根底に置かれ、自然や「理」の中で内在的に捉えられる。
⇒汎神論的・汎心論的構成。「心の外に別の神なく別の理なし」(林羅山)
宣長の神:一切の合理的解釈、倫理的評価を排して神を彼岸的なものとして捉え、逆に彼岸的な神(高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と神皇産霊神(かみむすびのかみ))によって一切を基礎付けた。
宣長学は徂徠学と道の内容を全く異にしながら、道の根拠づけにおいて同じ思惟方法を取つたのである。(中略)宣長によれば天地自然人事一切の根源は神の仕業にあり「すべて神の御所行(みしわざ)は、尋常(よのつね)の理をもて人のよく測りしるところにあらず、人の智はいかにかしこきも限りありて、小き物にて、その至る限の外の事は、えしらぬものなり」(くずばな上)。(163頁)

  • 徂徠学との連続性および逸脱

1.非合理的(非道学的)歴史観:「鳥獣草木の類、海山など」の全てを神とすることと、「神の倫理化」の拒否があいまって、「宣長は単に人間的基準による勧善懲悪史観を配排するのみならず、超人的基準(例へば天命・天道・神)による歴史の合理化にも反対し、好んで善人の滅び悪人の栄える実例を挙げた」(167頁)
2.文献解釈における主観性の排除:古文辞学においては「聖人の道」から教えを引き出すことに重点が置かれていたのに対し、宣長学では「その事跡そのままが道」とされる。
宣長が徂徠よりもラディカルであった点として、徂徠における「聖人」の彼岸性をさらに進めて、「神」の規範化を拒否し、「一切の規範なき処に彼の道を見出した」(169頁)ことにある。
「そもそも道は、もと学問をして知ることにあらず、生まれながらの真心なるぞ、道には有ける。真心とはよくもあしくもうまれつきたるままの心をいふ」(玉かつま一)
「人欲も即ち天理ならずや」(直毘霊)
⇒徂徠においては「道」(公的領域)から排除され、私的領域で「規範の不在」という形で消極的に肯定されていた人欲が、「道」そのものとして現れる。

初期:「哥の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる為にもあらず、ただ心に思ふことをいふより外なし」
⇒倫理および政治からの解放に焦点が当てられている。
宣長学の発展:「すべて神の道は、儒仏などの道の、善悪是非をこいたくさだせるやうなる理屈は、露ばかりもなく、たたゆたかにおほらかに、雅たる物にて、哥のおもむきぞよくこれにかなへりける」(うひ山ふみ)
⇒「神の道」=「哥のおもむき」=「もののあはれ

もしこれをかりに「文学の政治化」と呼ぶならば、宣長における文学の政治化とは、文学の内容が政治的なものに変質するのでもなければ、――徂徠や初期の宣長の様に――文学が政治的な効用をもつといふだけでもなく、文学的精神がさながらに政治的原理とされることを意味する。(中略) ところで文学が政治化されることは、反面からいへば政治が文学化されること、ややパラドキシカルに言えば、政治が非政治化されることにほかならぬ。(173〜174頁)

  • 「文学の政治化」とはどういうことか?

国学における「哥のおもむき」=「もののあはれ」が「一切の規範性を掃蕩した内面的心情」(178頁)である以上、「もののあはれ」自体は規範性を持たない。そして「もののあはれ」は「与へられたものを与へられたものとして素直に受取る」心情と結びついているため、政治的には「非政治的態度」を取り、同時に一切の政治体制を受けいれる相対主義となる。⇒「世のなかのよきもあしきもことごとに神のこころのしわざにぞある」(玉鉾百首)
⇒「しかし規範性の否定が否定として積極化されるや必然に、それはそのまま肯定に転ずる。苟も宣長学の道が、儒仏等の道と区別される限り、区別され特徴づけられること自体既に「事の跡」の観念的上昇を伴ふのである」(181頁)
⇒平田派による政治的実践へ
⇒「「国体」ナショナリズム」(姜尚中)との関連も意識していた?

  • 「規範性の否定が否定として積極化されるや必然に、それはそのまま肯定に転ずる」とはどういうことか?

参考:カール・シュミットの宗教論

歴史的にみて、私化は基礎から、すなわち宗教から始った。市民的社会秩序のいわゆる基本的人権の第一号は宗教の自由である。信教良心の自由、集会結社の従、表現の自由、営業の自由といった自由権目録の歴史的展開の中で、宗教の自由が最初で第一の原則である。しかし、宗教をどこに位置づけようと、つねに、宗教の、他を吸収し自己を絶対化する作用が、いたるところでみられる。そして宗教が私事である場合、その結果逆に私事が宗教的なものとして神聖化される。両者は相互に分離さえれ得ない。かくして、私的所有権が神聖であるのはまさに、それが私事だからということになる。(「ローマカトリック教会と政治形態」『政治神学再論』157頁、初出1925年)

リベラリズムが宗教を私的なものとした結果、宗教の「他を吸収し自己を絶対化する作用」によりリベラリズムの核心にある私的所有権が神聖化された。

国学における私的なもの=「もののあはれ」が、私的領域の総体(人の心の動きを含めた経験世界・感覚的世界)を吸収し、絶対化する。すると、徂徠学において注目された政治的作為も、政治が政治として意識される以前に、「もののあはれ」という美意識の内容として受け取られてしまう。こうして、国学の核心にある「事の跡」が神聖化される。
⇒発生論と価値論の同一化(すでに起こったことは正しい)⇒復古主義へ。


第五節「むすび」

  • 徂徠的「政治」と宣長的「政治」

徂徠的「政治」観⇒「道」という超越的なものから派生した礼楽刑政の実現。そこでは私的な利害関係が、まさに私的なものとして排除されているため、政治の目的は共通善の達成に限られる。
宣長的「政治」観⇒個々の素直な真心(人欲)が「神の道」として肯定され、政治の原理となる。ゆえに、私的な利害関係の調整が政治の目的となる民主主義の可能性が開かれる。その担い手となるべき町人層の未成熟によって、封建的勢力との対決を回避する「現状肯定」の思想として機能。
宣長学とは近代化における躓きの石であると同時に、不可避の通路でもある。

神道を排他的なイデオロギーに高め「復古」を強行しようとした平田派国学者がその維新当初の絶大な指導性をやがて急速に失墜し、「欧化」に対して徒に悲憤する一群の反動主義者に転化して行つたのに対して、国学の実証的精神は欧州市民文化の普及の為に積極的に働きかけた――必ずしも著名ならぬ――若干の啓蒙的神官において、まさしく近代的な合理主義との結合を見るに至つた。 (188頁)

丸山は近世後期から明治までに培われた「近代的」「合理的」部分を、近衛新体制という「非常時における政治的決断」を通して拡大していくことに可能性をかけたのではないか。では、どのようにして拡大するのか。

個人は国家を媒介としてのみ具体的定立をえつつ、しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持するごとき関係に立たねばならぬ。しかもそうした関係は市民社会の制約を受けている国家構造からは到底生じえないのである。そこに弁証法的な全体主義を今日の全体主義から区別する必要が生じてくる。(「政治学に於ける国家の概念」『丸山真男全集』第1巻31頁、初出1936年) 

国家⇒ナショナリズムと、それに対する否定的独立⇒デモクラシーの結合という「弁証法的な全体主義」を、総力戦という非常時を利用して達成しようという、ある意味では危険な試みであったと言えるのではないか。


参考・引用文献
丸山眞男『日本政治思想史研究』東京大学出版会、1983
同初出一覧
1.『国家学会雑誌』第54巻2号 「まへがき」〜第二節三まで
2.同上 第54巻3号 第二節四〜第三節二まで
3.同上 第54巻4号 第三節三〜第三節の終わりまで
4.同上 第54巻5号 第四節〜第五節まで
丸山眞男「或る日の会話」「政治学における国家の概念」『丸山眞男集』第一巻 岩波書店1995
姜尚中ナショナリズム岩波書店、2001
米谷匡史「丸山真男の日本批判」『現代思想』1994年1月号、青土社
カール・シュミット著、長尾龍一他訳「ローマカトリック教会と政治形態」『政治神学再論』福村出版、1980