柳田國男『遠野物語』

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

柳田民俗学(特にその初期作品)に対する「よくある批判」として、以下のようなものが挙げられる。
民俗学は10年前の出来事も100年前の出来事も全て一様に「過去」として扱ってしまう。それによって農村はフラットで静態的なものとして捉えられ、そこに生じる変化は全て外部からの押し付けによるものとして観念されることになる。それに対して歴史学は時間を細かく分節していくことに特徴がある。10年前の出来事、100年前の出来事は、たとえその内容が著しく似ていたとしても「別の出来事」とされる。
柳田民俗学の「非時間性」に対する以上のような批判はそれほど間違っていないし、近年の民俗学もその「非時間性」を克復しつつある。というより、歴史学民俗学の境界は今日においてほとんど存在しないと言うべきか。
しかし、その「非歴史性」は、柳田が記述の対象としたフォークロアの特性と密接なかかわりを持つ。つまり、フォークロアは特定の話者によって語られ、特定の人物(この場合は柳田)によって書き留められるわけだが、それは未来においても再び語られ、変容を遂げる可能性が残されているという意味で、歴史学の対象となる事件・人物のような完結性を有していないのである。そのため、フォークロアについて語るということは、過去において完結した出来事について語るのではなく、まさに現在起こっている「解釈」という事件について語ることを意味している。
遠野物語』の特徴として、まず人名や特定の時間を指し示す言葉――つまり固有名詞――の削除による、極めて抽象的な文体が挙げられるだろう。その話が誰によって語られたのか、それがいつの時代の出来事だったのか、柳田は知っていたにも関らず書かなかった。その辺が「遠野物語は文学」と呼ばれる由縁でもあるのだが、特定の作者がいないフォークロアの特性を残しながら現代語で書くには、これしかなかったのではないか、という気がする。
もうひとつ付け加えるなら、以上のような文体上の特徴にも関らず、柳田が彼自身の言葉でフォークロアを語っている、という点にも注目する必要があるだろう。平地人の柳田が、平地人と地続きの存在である山地人について、特にその中にある山人的メンタリティを語っている。つまりは近代人の中にある前近代性について、柳田はどちらの側にも立たずに語っているのである。農政官僚として近代化を推し進める柳田と、それによって失われるフォークロアを惜しみ続ける柳田という分裂した意識が、文体の上に投影されている、と私は考えている。