ロベルト・ベニーニ『Life is Beautiful』

ライフ・イズ・ビューティフル [DVD]

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これは何といってもタイトルが秀逸。内容を要約しているというよりは、むしろタイトルによってどういう映画だったのかがわかる。そういう意味でインパクトが強すぎるタイトルだと言えるかもしれない。
それはともかく、タイトルだけでなく内容も非常に良く出来ていたと思う。ストーリィを簡単に要約すると、アウシュヴィッツに収容されたユダヤ人の主人公は極限状態においてもなお尊厳を失わなかった、という話で、かなり際どい題材を扱っている。もしこの映画で「アウシュヴィッツ」とか「ヒトラー」という単語がちらっとでも出てきたら、私はこの映画を罵倒していただろう。過去にアウシュビッツで殺された人々は、生者に何の関心も持たない。ただ、生者が「自分はなぜ生きているのか」を知るために、死者は何故死んだのかを知りたいと願うだけである。だからこそ、過去における特定の時間、特定の死者を利用して、生者の存在を意義付けしてはいけない、と思う。アウシュヴィッツで人々は、何の意味もなく殺された。他の人々は何の意味もなく生き残った。それが現実であった。
ただこの映画は、第二次世界大戦という時代背景や主人公がユダヤ人であることを、強制収容所が現れるまさにその瞬間まで語ろうとはしない。ヒトラーの名前も出てこない。主人公たちに降りかかった災難は、ユダヤ人の災難ではなく、誰に対しても起こりうる普遍的な災難として描かれている。
そして、強制収容所で主人公は鉄の塊(戦車の部品?何かよくわからない)を延々と運ばされる。それが何なのか。おそらく意味はないのだろう。最後に主人公はあっけなく殺されてしまう。人が無意味に集められ、無意味に殺されることにアウシュヴィッツの意義があるとするならば、この映画は普遍的な出来事としてのアウシュヴィッツと、固有の出来事としてのアウシュヴィッツとを、その境界線上で描き出そうとした作品だと言える。
また、先述した鉄の塊もそうだが、強制収容所の中でかくれんぼをするドイツ人の子どもや、人を絶望的にさせるドイツ人医師とのやり取りといった細部にも見所が多かった。テーマ性の強さにも関らずのっぺりとした映画になっていないのは、これらの細部から浮き上がってくる普遍性のためではないか、と思う。ロラン・バルトが「プンクトゥム」(突き刺すもの)と呼ぶものはすなわち細部のことだが、細部は小さいからこそ拡大され、より大きなものを暗示することが出来るのである。