曾我蕭白について

この雑記の第1回目として取り上げるのは「奇想の画家」曾我蕭白。有名な作品については以下のリンク先で見ていただきたい。
http://www.kyohaku.go.jp/jp/tokubetsu/050412/shoukai/index.htm
70年代に辻惟雄氏が「奇想の系譜」で再評価して以来、一般での人気は非常に高い。ただ、それだけに好きな画家を訊かれたとき「曾我蕭白が好きなんです!」なんて言うと、ミーハー(死語?)だと思われそうで、ちょっとだけ抵抗を感じるのである。クリムトとか、ミュシャとか、その辺と似たようなポジションではないだろうか。ここはやはり「海北友松」とか「雲谷等顔」といった、名前は知っているけど作品は見たことない的な画家の名前を挙げるのが上策だ。会話は続かないだろうが……
蕭白の話に戻ろう。三重県に多くの作品が残ることから*1、戦前はそっちの地方の出身だと考えられていたらしいが、最近では興聖寺で発見された史料その他によって京都の商家に生まれたことがわかっている。ただ、かなり早い時期にその生家が没落しているので、ショバ代で悠々自適の生活を送っていた伊藤若冲などとは対照的な生い立ちだったのだろうと推測される(ちなみに若冲の生家は錦市場の西の端っこ辺りにあった問屋)。同じ「奇想」というカテゴリィに括られていても、蕭白若冲の作品を決定的に異なるものにする「暗さ」はこの辺から来ているのではないか。そういえば、岩佐又兵衛も結構酷い生い立ちだ。


さて、ここまで何度も「奇想」という言葉を使ったが、蕭白は他の画家とは全く異なる突飛な存在というわけでは、もちろんない。蕭白の数少ない山水図を見ると垂直にそびえ立つ崖の描き方が雲谷派のそれと非常に良く似ているし、山にかかる金色の雲には岩佐又兵衛からの影響が見られる。画題の選択も当時の一般的なそれを多用している。いかにも「蕭白らしい」ユーモラスな表情を真似する画家も多かった(若冲の「雨龍図」における龍の表情は、蕭白の「柳下鬼女図」に原型を求めることが出来るだろう)。
一応書いておくが、蕭白の絵は彼が生きている内から人気があった。安永4年版『平安人物志』人名録画家の部でも15番目に名前が挙げられている。当時の京都には千人単位で画家がいただろうから、そこで15番なら、まず人気絵師と言って良いのではないだろうか*2
蕭白にしろ、若冲にしろ、彼らの表現は新しかった。ただ、構図を過去の大家から借用するなど、その表現を古典によって支えていたという点で、応挙以降の写生画とは決定的に異なる。「奇想」という点では応挙こそが一番飛んでいる*3


改めて蕭白の独自性を考えてみよう。月並みだがモチーフにおいては「反骨精神」「聖俗の逆転」、筆法では「古典的手法のリバイバル」が特徴として挙げられる。まず前者についてだが、時代背景として陽明学の存在を無視してはならないだろう。特に陽明学左派では聖人と狂人は紙一重であると考えられていたことから、蕭白の絵が受け入れられる土壌は出来上がっていたと考えられるのである。蕭白にそれほどの学問があったとは考えづらいが、例えば「太公望図」*4の「魚釣れねー。まじブッコロ」みたいな人間臭い表現がそういう風に解釈されたのではないか、と。
次に筆法だが、名前の通り曾我派の技法(ただし蕭白が勝手に名乗っているだけ)、先述した雲谷派、岩佐又兵衛、この辺に似たところがある。どれも当時の京都では全然馴染みのない画家ばかりである。加えて画面をびっしりと埋める執拗な描写。文人画の流行っていた当時では、画面を埋めるということがまず珍しかっただろう。わざと古い様式、馴染みのない筆法を選んだのではないだろうか。
蕭白がどこで絵を学んだのかははっきりしない。幕末の文献では高田敬輔に師事したとされているが、同じ高田敬輔の弟子たちが書いた門人録には名前が載っていない。つまり、弟子でなかったか、あるいは弟子から仲間はずれにされていたか、だ。どちらもありそうな気がする。
蕭白の本当の苗字は「三浦」らしいが、頼朝の家来である三浦氏の子孫を名乗ったり、全然関係ない明国初代皇帝の子孫を名乗ったり、やっぱり関係ない曾我派を名乗ったりと、一般に馴染みのない名乗りばかりを選ぶところが可笑しい。
画家の生涯を描いた作品は数多いが、ステレオタイプなものばかりでうんざりすることがある。浮世絵師が「庶民の味方」みたいに描かれていたり、ゴッホは狂気に凝り固まっていたり、モディリアーニは悲劇のヒーローだったり。もしフィクションに蕭白のような画家が出てきたら、僕はやっぱり「リアリティがない」と怒るだろう。「本当に画家映画に出てきそうな画家」というのは蕭白くらいのものだ。

*1:朝田寺とか

*2:ただし1番は応挙

*3:ただ、応挙の「写生」にしても博物学の発展という時代背景に支えられてのことではある

*4:2.3日前まで京博で展示されていた。魚の釣れなかった太公望が船の上で不貞腐れている絵