金原左門『大正期の政党と国民』

大正期の政党と国民―原敬内閣下の政治過程 (1973年) (塙選書)

大正期の政党と国民―原敬内閣下の政治過程 (1973年) (塙選書)

大正期の政党、とあるが、本書が取り扱っているのは原内閣に限られる。平民宰相と呼ばれながらも財界の立場から政策を立案し、また、道路や鉄道の敷設を通して地方の支持を取り付けるという、現代の自民党にも通じる手法によって政友会を発展させたことは良く知られているところだ。個人的には田中角栄を連想するのだが、彼との違いといえば、原が政治家としては稀な、公私の区別が出来る人物だという点だろう。
さて、原が首相を務めた大正7〜10年の間の日本社会は極めて多難な時期であった。7年に起きた米騒動によって寺内内閣が倒れ、その結果として原に順番が回ってきたわけだが、そのことは民衆運動によって政権が移りうることを証明したわけでもある。原内閣の時代に内務省地方局の社会課が社会局に昇格、独立するなど社会行政に大きな関心が寄せられたのも当然であると言えるだろう。大原社会問題研究所が刊行した『日本社会事業年鑑』も大正八年の分から始まっている。地方改良運動の発展版というべき民力涵養運動が始まったのも、やはり大正八年からであった。
しかし、米騒動に代表される食料問題などの生活向上に関して、原内閣が積極的な対策をとったとは言い難い。例えば食糧問題への対策として行った外米の購入だが、これが米価の調節に効果的かといえば、必ずしもそうではなかった。市場に混乱を引き起こし大量に余った挙句、政府がその代金を補償することになったのである。政府が米穀商に支払った保証金は約1億2,3千万円に達するという。
また、高橋是清が物価調節のために金利の引き上げを提案した際、原は、金利を引き上げると景気は良くなるだろうが国際市場における日本の地位を不利におとしいれる恐れがあることを指摘し、以下のような対案を提示した。

政府は夙に国民の濫費を戒め投機的信用の防止に努むると共に、特に民間における余裕金の如きは其の物資に対する不生産的需要を増進するものなるに鑑み、之が吸収を図るに最も意を致し、以て一面物価の抑制に資すると共に、他面之に依りて国民をして恒産有らしめ、他日反動時期に処するの準備たらしむることを期す

要するに質素倹約に努めなさい、ということ。こういった社会事業をどのように評価するのかは非常に難しいところである。以前にも書いたことだが、この時代は特に農村において収入<支出の状態であった。資本主義の流入、都市への出稼ぎによって荒廃した農村を立て直すためにはある程度リアリティのある政策であった、と言えるのかもしれない。
加えて、こうした質素倹約の運動は思想の統制と不可分の関係にある。第1次世界大戦後の社会構造の変化とデモクラシーの風潮を受けて、個人を地域共同体の中にどのように位置づけ、働かせるかということが重大な関心事となっていたのである。この時代は青年団、処女会といった半官半民の団体が盛んに組織され、地域に密着した活動を行っていた時代でもある。
郡制が廃止されたことや、地方改良運動が中央からのトップダウンで行われていたのに対して、民力涵養運動が「地域の実情に適応する方策」を考えるよう、実行の手段が地方に任せられていた理由も「地域共同体の再編」という観点から理解されるだろう。


原内閣や民力涵養運動について語るべきことは多いが、今回はこのくらいで。