新藤兼人『裸の島』

裸の島 [DVD]

裸の島 [DVD]

映画における声の問題について考えてみたい。
現代の私たちにとって声を欠いたサイレント映画がある意味では不完全な映画と考えられていることは確かであり、また、それはサイレント映画が主流であった時代においても同じであったと考えられる。サイレント映画における誇張された動き、様式化された身振り手振りは声の欠落を補うものとして認識されていた。
おそらく、この「自然さ」にはふたつの理由がある。ひとつは、スクリーンに投影された二次元の人物が、そこに映っていない時間も含めて一貫した身体を持っているという前提が作り手と受け手との間に共有されていること。声は身体に従属するものであるために、この想像上の身体性を支える役割を果たしている。もうひとつの理由は、映画がまさしく「語られるもの」であるためである。ドキュメンタリィ映画の分野においてはある時期、「出来事が自ら語るに任せる」ことを信条とする作家たちの間で、声(特にヴォイス・オーヴァー)は出来事ではなく作者が語るという、ある種の特権的な地位にあるものとして考えられるようになったために、ヴォイス・オーヴァーを排除した新しいドキュメンタリィが作られた。しかし、それは結局のところ「現実とはあるがままに存在する」という錯覚、「映画とは現実を正確に映したものである」という錯覚を助長するものであり、また、それ以上に重要な「声とは沈黙によってより一層その存在感を増す」という事実を忘却したものであった。
こういった諸問題を踏まえた上で『裸の島』を見ると、声を不自然なまでに排除した作品でありながら、上述したようなドキュメンタリィのあり方とは全く異なる、「沈黙によって語る」ことを目指した正しいドキュメンタリィであることがわかるだろう。
水の出ない、乾いた島で畑を耕す主人公の一家は、毎日隣の島まで渡って水を運んでくる。その水を少しずつ、柄杓で畑に撒くシーン、これは一体何回映されただろうか。過酷な環境の中、代わり映えのしない生活を送る農民の、辛い日常を描いた作品、という感想が浮かんでくる。島の四季を描く中で、収穫の春や祝祭の行われる秋のシーンが妙に短いこともその理由のひとつである。
しかし、声がないというまさにその理由によって、この映画に描かれた農民たちは「無言の行」を行う求道者となる。「耕して、天に至る」という冒頭のテロップは、それを端的に表したものだろう。
終盤における息子の死と、それを嘆き悲しむ母親の慟哭(この作品唯一の台詞)は、物語をやや通俗的なものにしたかもしれない。ただ、それもわずかの間で、すぐにまた畑に水を撒き始める。そしてカメラは主人公たちから遠ざかり、島の全景を映す。島いっぱいに作られた畑−それは、自然に対する人間の営みの象徴であり、主人公たちの力強い生を表したものである。