高梁・頼久寺


この頼久寺は、江戸時代初期の茶人・小堀遠州が父の後をついで備中国奉行となった際に仮の住居とした場所で、庭園もその時に作庭されたと伝えられている。私の記憶では、遠州が作庭を行ったという確実な記録は存在せず、正確には「伝・遠州作」とするのが正しいはずだが、幾何学的・構成的な遠州の庭の特徴を非常によく表していることから、遠州作庭としてほぼ間違いないだろうとされている。

小堀遠州といわれても、今日では茶の湯に興味のある人以外には馴染みのない名前だろう。1579年、近江国小堀村に生まれ、大徳寺の春屋宋園のもとで修行した後、古田織部の後任として将軍家茶道指南役をつとめ、さらに作事奉行として大規模な作庭に携わった。京都の古寺を訪れ、庭園を見て歩くとき、伝遠州作あるいは遠州が手を加えたという庭園に意外なほど多く出会う。あるいはそれによって遠州の名前を記憶している人もいるかもしれないが、遠州が造ったと断言できる庭園は決して多くはない。遠州は伏見奉行や将軍家茶道指南役など公的な仕事をこなしていたことから、実際はそれほど多くの作庭を行ったわけではないのである。
しかし、南北朝期の禅僧・夢窓疎石によって代表される従来の日本庭園−自然即浄土という、仏法の自然化−に対し、遠州の庭が「作為」を前面に押し出し、より深いレベルでの自然の抽象化を試みたことは、以後の庭園に対して重大な影響を与えたと言える。

さて、この頼久寺は鶴亀式枯山水、あるいは蓬莱式枯山水庭園と呼ばれている。前面に敷かれた白砂は海の象徴であり、その中にある石組は蓬莱諸島を模して造られている。直線的な大刈り込みや水墨画的な枯山水からは、江戸初期における中国・朝鮮との活発な交流や五山文学、さらには宮廷の文化サロンを通して摂取したキリスト教文化の影響が見られるが、より直接的には平安時代に国風化した神仙思想への回帰があったと言えるだろう。そのモチーフを、上記のような時代性に合わせて展開したところに、遠州の独自性がある。

「如何に古へよき事なりとも当代に合はざる事をするは下手なり。例へ末世の事なりとも時の時節を取つてするは上手なり」
  『遠州茶の湯物語』(1643)より


灯篭の竿の部分には暦応二年の文字が刻まれている。暦応二年(1339)、足利尊氏は国家安泰を祈願して全国に安国寺を建立したのだが、備中では天忠寺を改めて安国寺とし、旧寺名を山号として天柱山安国寺と称した。灯篭はその際に寄進されたものと考えられる。なお、頼久寺の名は、室町時代後期にこの寺の再興に尽力した松山城主上野頼久の名に因む。