尾道・浄土寺


更新を休んでいた間、山陽の古寺や庭園を回っていた。
最初に訪れたのは尾道浄土寺。多数の国宝・重文を有するこの寺は、鎌倉時代から在地の有力商人たちの財力によって維持されてきた。そもそも商港・尾道のルーツはかつて後白河法皇の荘園・太田荘の倉敷地(つまり倉庫を置く場所)にあり、当初は荘園からの収穫物の保管や積み出しの仕事を行っていた倉敷地の住人が後に独立して運輸業を行うようになったため貿易の拠点として発展したと言われている。倉敷地としての役割は毛利元就の中国支配によって終りを迎えるが、江戸時代には西廻り航路の開発によって貿易拠点としての重要性はますます高まった。
それにしても、倉敷なのに広島県だなんて実に不思議だ。何でだろう(それが言いたかっただけ)。


本堂と多宝塔は鎌倉時代末の建築で、いずれも国宝。本瓦葺きの屋根がなんとも夏らしく乾いた感じで好ましい。いや、年中本瓦葺きだけど……。本堂は和様を主として大仏様と禅宗様を加味した折衷様形式で、桁行五間、梁間五間の入母屋作り、正面には向拝が付けられている。この辺りでは観光客に大量の鳩が群がっていて、ヒッチコックの『鳥』を想像させる光景だった。

本堂の左右に吊るされた提燈には足利氏の家紋「二引両」が描かれている。足利尊氏が戦勝祈願のため度々この浄土寺に参詣したことから、足利氏との縁が深く、尊氏が浄土寺備後国得良郷の地頭職を寄進する旨を記した寄進状や、直義が東寺所蔵の仏舎利を奉納する趣旨の手紙、直冬が天下安泰の祈祷を行うよう命じた下知状などが残されている。ちなみに、直冬の下知状に書かれた日付の一週間後には、直冬と足利方の武将との間で戦いが起こっている。きっと下知状が届くのが間に合わなかったのだろう。


多宝塔は、同じ鎌倉時代の多宝塔(滋賀石山寺と和歌山金剛三昧院)と比べると、やや背が高くて白いドーム上の部分(亀腹)が大きく、屋根の下にある蟇股に凝った装飾が施された優美な外見が特徴。内部には大日如来・釈迦如来薬師如来の三尊が安置されているが、非公開。


今回、最も楽しみにしていたのが庭園である。一応専門なので……。ところが庭園の目の前にある書院が修理中で、庭園も半分くらいしか覗けなかった。
国指定の名勝だが、作庭年代が江戸末期ということもあって、それほど優れた庭園というわけではない。ただ、作庭の際、施主に対して説明するのに用いられたと考えられる絵図が現在でも残されており、設計意図や設計者が判明しているという点では貴重なものである。書院先の飛石は春夏秋冬四季の姿があり、安徳天皇の時代からこのような据え方が始まった、とか、手水鉢は聖徳太子が7歳のとき大和の桔花寺で初めて用いた、といった説明がなされており、いかにも胡散臭い。その他にも設計者は絵図の中で、古い時代の作庭書を所持してそれに基づいた作庭を行っていると述べており、それによって庭の権威付けを図ったと考えられる。