柏木義円「渡瀬氏の『朝鮮教化の急務』を読む」1914.4

柏木義円同志社出身の牧師で、明治三十一年から38年間に渡って刊行された『上毛教会月報』によってその名を知られている。日本組合教会に所属していたが、同教会が総督府の依頼を受けて朝鮮伝道を始めると、それに強く反対した。以下の引用文は、朝鮮伝道の主任牧師である渡瀬常吉の『朝鮮教化の急務』に対する批判である。掲載されたのは先述した『上毛教会月報』の第186号。

組合教会の朝鮮教化資金募集委員が朝鮮教化に就て天下の有志に訴へた檄には、韓国併合を以て前古未曾有の盛事と讃し、朝鮮伝道の目的は、一は彼等をして神の国の民たらしめんと期する所謂純粋宗教的の立場、他は彼等を同化して我が忠良なる臣民たらしめ以て併合の大目的を徹底せんとする日本人としての立場の二重ありと為し、而して此檄を敷衍し説明したると思しき本書は、専ら此の第二の点を高調して、在朝鮮の外国宣教師の伝道は単に第一の目的を達するのみなれば、今や日本国民となりたる鮮人の伝道には其資格に於て欠くる所ありと為して居るやうである。
(中略)
基督教の伝道の目的は、単に基督の福音を宣伝して人をして悔改めて神の子とならしむるの一事の外はない。其結果として忠良なる臣民、孝順なる子女、貞淑なる婦人を生ずるも、其は唯其の当然の副産物のみである。(中略)神の天父で在して人類は相愛すべき同胞兄弟であることを徹底せしむれば十分である、何ぞ独り日本人と謂はん。

韓国併合の実を上げる為には外国人宣教師を排除して日本人がその精神上の指導的立場にあることが必要だと主張する渡瀬に対し、柏木は宗教の非政治性を重んじる立場から渡瀬が「福音宣伝を以て帝国主義の方便と為」していることを強く批判している。
なお、この記事で柏木は、日清日露戦争がそもそも朝鮮の独立を守るという大義名分で行われたにも関わらず、韓国併合をその当然の成果と見なす、帝国主義の風潮それ自体にも批判的な態度を取っているが、ここではあくまでも「宗教と帝国主義」の結びつきにその焦点を絞っている。

本書所説の本旨は、言ふ迄もなく、組合教会の鮮人伝道は鮮人の日本国民化で、鮮人をして其の反抗的心状態を去り、独立自治を慕ふの気概を転じ、日鮮一体の境地に達せしむるに在て、外国人宣教師の伝道はこれを為すに適せず、唯日本人の伝道のみ之を為すを得可しと自任し、此唱道を以て純福音宣伝に趣味なき日本人を動して其の物質的援助を得んとするに在るやうである。

1910年韓国併合の直後に組合教会では朝鮮伝道部が設立されるのだが、その伝道方針は、朝鮮人への伝道と朝鮮人クリスチャンを組合教会に参加させること、そして朝鮮人クリスチャンを日本人に同化させ、抗日運動を弱めることであった。なお、渡瀬には『日本神学提唱』という著作があり、その中で古事記旧約聖書の類似性について論じているらしい(未読)。基督教と天皇制を融合させることにその特徴がある、と言えるだろう。
最後に、渡瀬が総督府から年額六千円の機密費補助を受け、それを伝道に使用していることに言及している。

終りに、本書には関係ないが一言するの止む可らざるものである。其は匿名寄附の事である。右の手の為す事を左の手に知らしめないと云ふ高潔なる動機よりする匿名寄附ならば最も喜んで受く可きであるが、或る意味に於ての匿名寄附は匿名と云ふ事其事が既に公明正大でないから、醇の又醇を期する伝道事業には受けたくはない。特に機密費と云ふものは多くは公明正大ならざる事に使用せらるるものであるから、成る可く削減せられんことを吾人は平素の希望として居るものである。聞くが如く、若し此匿名寄附が機密費より出でしとせば、其の機密費を以て伝道を補助せらるるが如き、吾人の屑よしとせざる所である。

朝鮮総督府と組合教会の関わりについては、渡瀬の朝鮮旅行記「ひずめの跡」に詳しい。朝鮮組合教会の第一回大会で、総督府の人間が演説を行っている。


国家と宗教の深い結びつきについては、廃仏毀釈後に仏教がその存在意義を確認する過程において、「護法」によってキリスト教無政府主義といった「邪教」が日本に入ることを防ぎ、それが「護国」になるという論理を用いたことからもわかるように、本来の超世俗性をスポイルし国家主義との結合を果たしたことにその端緒がある。
明治後期に入ると、当然ながらキリスト教邪教という捉え方は不可能なものとなり、代わってキリスト教をいかに支配構造の一部に組み入れるかが問題となった。明治四十五年には内務次官の床次竹次郎を中心に神道・仏教・キリスト教の「三教会同」構想が立ち上げられ、各宗教の代表者に対し、国民に「精神上の慰安」を与え、利害対立の緩衝材としての役割を果たすことを要請している。この「三教会同」は床次が内務大臣となる原敬内閣においても再び試みられている。
こういった動きに対し、例えば仏教清徒同志会は機関紙『新仏教』において反対のキャンペーンを行ったが、それらは国家が宗教に対して過剰に干渉することを批判したものの、高島米峰が「国家が、自己の境域内の国民に、大影響を及ぼすべき宗教に対して厳に之を取り締まるということは、当然の務めである」(第13巻第3号)と妥協したように、国家の無謬性にまで批判の手を伸ばすことは出来なかった点に、その限界があったと言えるだろう。