沢田謙「都市の反逆」1923.9

沢田謙は戦後、偕成社から伝記シリーズを多数出版した児童文学者である。ただし、戦前にはここで引用するような社会時評的な活動も行っていたことは、現在ではあまり知られていない。昭和期には『ヒットラー伝』『ムッソリーニ伝』とプロパガンダ的なものを書き始めているので、その辺が転換点だったのだろうか。
「日本に都市はない、ただ人間と建物との集合があるのみだ」という言葉に集約されるこの文章は、大正十二年、関東大震災の復興途上にある東京の姿を克明に描写するとともに、「デモクラシィ」に代わって当時の思想界を代表する言葉となった「改造」の精神を表す重要な都市論である(大山郁夫はその浅薄さを批判しているが)。沢田はまず、外国人の視点を借りて現在の東京を語らせる。

都市で一番問題になるのは道路である。昨年アメリカから市政学の権威ベアード博士が来た。東洋一の大停車場たる東京駅に一行が着いたとき、無邪気な令息は、敷きつめた小砂利をいぢりながら訊ねた。
「ここは浜辺ですか?」
(中略)
都市電車を利用する人は、毎朝長靴ばきの多くの青年が、どやどやと乗りこんでくるのに会ふであらう。これは早朝を郊外に乗馬する紳士ではない。泥田のやうな道をふみ渡るためには、長靴はなによりも生活必需品なのである。

近代の都市問題といえば、大震災後に分散化の傾向を辿っていたスラムの問題が真っ先に思いつくところだが、沢田は都市の玄関である駅や大通りでさえも欧米の水準で見れば非常に貧弱なものでしかないことを指摘している。
日本において十分な都市計画がなされていないのは何故か。沢田は、自治体の首長に対して都市計画を行うだけの十分な権利、特に財源が与えられていないことが問題であると考えた。

近世国家は、その組織完成の必要から、すべてのものの権利を奪って、これを国家主権に併合した。民本主義の名の下に、人民の自由権の名の下に、国家以外の組織をすべて否定した。初稿の封建国家は、近世国家に滅ぼされた。そしてそれと同時に、封建都市もその自治権を国家に略奪された。
現代の産業都市は、実にこの略奪されたる自治権を、自らのために奪還せんとするのである。そして都市は反逆する。

地方へ財源を移すこと。この辺はなかなかよく分かっているなと思う。後述するように、政府レベルでの復興計画に人々が注目し、伊東巳代治が幹線道路の建設に反対しているのは自身が大地主だからだ、といった話題で盛り上がっていた頃、沢田は都市計画を行うことの出来ない構造的な問題に目を向けていたのである。都市そのものは財源を持っていないし、財源を持っている政府の中では利権が複雑に入り組んでいて、強権的な態度をとることができない。必要なのは、国から地方に行政権と財政権を移すことである、と沢田は考えた。

現代の都市は、独立の事業的組織である。いなかくならんとして努力しつつあるのである。そしてそのために、永き国家の束縛より脱線と、反逆しつつあるのである。
見よ。反逆の進行曲はなりひびく。日本の都市よ。逆徒たるの光栄を避くることなかれ。

なお、沢田がこの記事を書いた頃ちょうど内務大臣に就任した後藤新平が立てた東京復興計画では、復興費13億円(原案では30億)、新道路建設がその中心とされていたのだが、帝都復興審議会では後藤の親友である伊東巳代治や高橋是清が反対、復興計画の規模を巡って議論が紛糾した。その渦中、かつて東京の市政調査にあたったアメリカの政治学者C.A.ビーアドは、後藤に対して次のように忠告している。

世界の目は後藤の上にある。彼が失敗するならば、それは日本の失敗である。十年ないし五十年後に来るべき第二の危機は、さらに広汎にして戦慄すべき大惨禍を誘発し、子孫たちは彼と彼を一員とする内閣を呪うであろう。(中略)もし、評議員会および内閣が来るべき災害防止に絶対必要な事項を承認しない場合には、辞意を提出して引退さるべきである。貴下の決断は、数百万民衆の運命と史上における貴下の地位を決定されるであろう。

しかし、後藤はビーアドのこの忠告を無視して、政友会が提出した妥協案を呑んだ。結果として東京の都市計画は大幅に後退することになったことはよく知られている通り。