デイヴィッド・リンチ『イレイザーヘッド』

一度見て途中で寝てしまい、もう一度見て「これは面白い!」と画面に釘付けになった作品。若くして家庭を持ったリンチ監督の不安が投影されていると言われるが、僕の印象だとより根源的な生の問題、「人が生まれ、生活し、死んでいく」という現象そのものが孕むグロテスクさを抉り出そうとした作品ではないかと思う。
まず、多くの映画においてポジティブな意味を与えられる食事のシーンが非常に気持ち悪い。犬の授乳、フォークを突き刺したチキンから滴る血、赤ん坊に与えられる謎の食物(「くだんのはは」みたいだ)。赤ん坊は乾いた皮膚を持たず、頭と内臓がむき出しになっている。こんな風に要約することが可能だろう、人間を一皮剥けば、生き物を消化する機関にすぎないのだ、と。
ある女性が主人公のもとを訪れてくる。主人公は彼女に「気を遣って」、泣き喚く赤ん坊の口を手で押さえつける。ここも最高にグロテスクなシーンだ。この直前までにむき出しの「生き物」の気持ち悪さに耐えられなくなったためではないか。しかし、この作品の赤ん坊は徹底的に無力であるが故に、神に近い存在として描かれている。赤ん坊が人の営みを嘲笑するように笑おうとも、我々はそれを正しいこととして追認するしかないのである。
赤ん坊は全身がむき出しになっているが、「普通の人々」にもむき出しになっている部分がある。それはすなわち「顔」であり、この作品の後半が「顔」の変遷を主題とするのも当然であると言える。人は素顔という概念によって「顔」を個人性と結びつける一方、積極的に加工して社会的位置を表すためのコード化を行う。この両義性こそが「顔」の特徴であると言えるだろう。

イレイザーヘッド 完全版<ニュープリント・スクイーズ> [DVD]

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