萩原朔太郎『日本への回帰―我が独り歌へるうた―』1937.12

萩原朔太郎1886年生まれの作家・詩人。石川啄木谷崎潤一郎と同年の生まれであり、日本の「西洋化」を体験してきた世代である。『月に吠える』(1917)『青猫』(1923)によって口語自由詩を確立したが、後の『氷島』(1933)で文語体に回帰。今回取り上げるエッセイ『日本への回帰』もその系列に連なるものである。

少し以前まで、西洋は僕等にとつての故郷であつた。昔浦島の子がその魂の故郷を求めようとして、海の向こふに竜宮をイメーヂしたやうに、僕等もまた海の向こふに、西洋といふ蜃気楼をイメーヂした。だがその蜃気楼は、今日もはや僕等の幻想から消えてしまつた。

このエッセイに見られる萩原の思想的な転換は、明治初期、大正、そして戦後の急激な西洋化(近代化)に付随して現れる、反動としての「日本への回帰」として一般に解釈されている。しかし、萩原に限らずこの時代に「日本への回帰」を唱えた人々にとって、回帰するべき「日本」とはどのようなものであったのか、それによって遠ざかる「西洋」とは何であったのか、という点について明らかにされることが必要ではないだろうか。またその過程を通して、日本の知識人にとっての「西洋化」の意味について考えてみたいと思う。

明治以来の日本は、殆ど超人的な努力を以て、死物狂ひに西欧文明を勉強した。だがその勉強も努力も、おそらく自発的動機から出たものではない。それはペルリの黒船に脅かされ、西洋の武器と科学によつて、危うく白人から侵害されようとした日本人が、東洋の一孤島を守るために、止むなく自衛上からしたことだつた。
(中略)
それ故に日本人は、未来もし西洋文明を自家に所得し、軍備や産業のすべてに亙つて、白人の諸強国と対抗し得るやうになつた時には、忽然としての西洋崇拝の迷夢から覚め、自家の民族的自覚にかへるであろうと、減るんの小泉八雲が今から三十年も前に予言してゐる。そしてこの詩人の予言が、昭和の日本に於て、漸く実現されて来たのである。
(中略)
だがしかし、僕等はあまりに長い間外遊して居た。そして今家郷に帰つた時、既に昔の面影はなく、軒は朽ち、庭は荒れ、日本的なる何者の面影さへもなく、すべてが失はれてゐるのを見て驚くのである。僕等は昔の記憶をたどりながら、かかる荒廃した土地の隅々から、かつて有つた、「日本的なるもの」の実体を探さうとして、当もなく侘びしげに徘徊してゐるところの、余にも悲しい漂泊者の群なのである。
(中略)
僕等は一切の物を喪失した。しかしながらまた僕等が伝統の日本人で、まさしく僕等の血管中に、祖先二千余年の歴史が脈搏してゐるといふほど、疑いのない事実はないのだ。そしてまたその限りに、僕等は何物をも喪失しては居ないのである。

萩原は幕末からの歴史をひとりの旅人に例える。西洋化としての「近代」はその途中で立ち寄っただけであり、ふたたび故郷である日本へと帰るのが必然である、と。産業的近代化と文化的近代化を意図的に同一視していることの歪みがその中には存在しているのだが、それについては後述しよう。
歴史が旅人であるというのなら、萩原自身もそうであった。1907年に熊本の第五高等学校に入学して以来、各地の高等学校や大学を転々としながら落第と退学を繰り返し、1912年に群馬に戻ってくる。故郷を離れて外遊し、再び故郷に帰ってくる「日本への回帰」と同じ軌跡をたどっているわけだ。そうして帰ってきた故郷では「すべてが失はれて」いることも同じである。地方名士であった父に厄介者扱いされ、町の人々にも陰口もたたかれたことにより、萩原は故郷も元の故郷ではないことを実感した。故郷での体験を以下のように振り返る。
「町の名門であり、立派な紳士として知られた父は、少なくとも家の対面を汚さぬ態度で、相当の仕事を持つことを私に望んだ。しかし学歴もなく才能もない無能の私に、到底そんな地位は及び得なかった。(中略)町の人々は、みな陰で私のことを嘲笑して居た。「親父は偉物だが、息子は困りものだて。」といふ声が、いつも私の耳に入った。(中略)相当な年齢をして、職業もなく遊んで居るといふことが、田舎では最も悪い誹謗と軽蔑を受けるのである」
先日の記事でも少し触れたが、日本においては「家」と「天皇制」という旧来的な規範こそが、人々を資本主義社会へと参入させる力として働いた。逆に考えると、資本主義社会から疎外されてしまった人間というのは、同時に「家」からも疎外されるのである。
その「家」から逃れるように、1925年に萩原は上京する。その17年前には夏目漱石の『三四郎』で「是から東京に行く。大学に入る。有名な学者に接触する。趣味品性の備わった学生と交際する。図書館で研究をする。著作をやる。世間で喝采する。母が嬉しがる。と云うやうな未来をだらしなく考へて……」と近代的大衆社会の象徴として描かれた東京であったが、このときの荻原が発見したのは、近代化されたはずの東京でさえも古い伝統を捨てられずにいる、という事実であった。荻原に限らず、近代の知識人で東京の非近代性に絶望したものは多い。橋川文三が「私は昭和十四年にはじめて東京に来て、高等学校へ入った。そのときの東京の印象はといえば、私にはまず偉大なる幻滅というほかはなかった」と書いているのもその一例。
産業的近代化と、文化的近代化の間に存在するズレがここで顕在化したわけだが、それによる思想的混乱を萩原はどのように収めたのか。以下の引用から考えてみよう。

過去に我等は、支那から多くの抽象的言語を学び、事物をその具象以上に、観念化することの知性を学んだ。そしてこの新しいインテリジエンスで、万古無比なる唐の壮麗な文化を摂取し、白鳳天平の大美術と、奈良飛鳥の雄健な叙情詩を生んだのである。今や再度我等は、西洋からの知性によつて、日本の失われた青春を回復し、古の大唐に代るべき、日本の世界的新文化を建設しようと意志してゐるのだ。

民俗と伝統に埋没した神秘主義やロマンティシズムに彩られた、当時流行の「日本主義」と萩原を区別するのは、ある意味中途半端な「西洋からの知性によつて、日本の失われた青春を回復」するという態度であった。近代の日本においても存在する「伝統」を無視できないのと同様に、「西洋化」が必要なものであることもまた認めざるを得なかったのである。
後に萩原が所属する日本浪漫派は軍国主義ファシズムの賛美者、国策への迎合として戦後長く黙殺されてきたが、当の萩原が感じていたのは、田舎においては伝統の中の近代性(資本主義)によって抑圧され、都会においては近代性の中の伝統に抑圧されるという、強い孤独感であった。

過去に我等は、知性人である故に孤独であり、西洋的である故にエトランゼだつた。そして今日、祖国への批判と関心とを持つことから、一層また切実なヂレンマに逢着して、二重に救ひがたく悩んでゐるのだ。孤独と寂寥とは、この国に生まれた知性人の、永遠に避け難い運命なのだ。
(中略)
僕等に国粋主義の号令をかけるものよ。暫く我が静かなる周囲を去れ。

それは、「ニヒルの漂泊者」と自ら言われている。しかしその漂泊者さえも自らの仲間として飲み込んでしまうのが、当時の「日本主義」のもつ影響力であったと言えるだろう。