『知りすぎていた男』

旅先のモロッコで知り合った男から、要人暗殺を予告する秘密のメッセージを受け取った主人公。警察にそれを知らせようとしたその時、お前の子どもは預かった、と告げる電話がかかってきて……。
そこで素直に警察に全部話しておけばすぐに警察が犯人のアジトに踏み込んで万事解決したものを、ヒッチコック作品らしい主人公の警察不信のせいで徹底的に引き伸ばされる映画。しかしこの映画の見所もまた、解決が引き伸ばしにされることによる緊張感とカタルシスの増大に他ならない。
映画の冒頭、劇場に立つシンバルの奏者が映され、彼が物語上重要な役割を果たすことが示される。そして終盤、ようやく主人公たちは劇場にたどり着く。客席に潜む狙撃者、楽団のシンバルがなった瞬間、その音に紛れて銃弾が発射されると観客は知っている。それまでのドキドキを、これでもかというくらいに引き伸ばす。サイレントで行われるアクションが緊張感を高める。このあたりではカメラを引いて、劇場全体を映す構図が頻繁に用いられる。それ以前のシーンでは禁欲的なまでに街や建物の全景を映すことを控えており、ストーリィの盛り上がりと構図の間に明確な関係が認められる。
主人公が警察署に引っ張られる場面では、警察署の全景や、オフィスの全体を映さず、警察官や廊下といった部分しか観客に見せない、禁欲的なフレーミングが興味深い。確かにそれでもわかる。ただ、最初に全体を見せてもいいじゃん、減るものでなしとも思う。ヒッチコックにとっては減るものらしい。
瀕死の男から「アンブローズ・チャペルに行け」という秘密のメッセージを受け取った主人公は、それを人物の名前だと思い込んで、チャペル氏の経営する店を訪れる。主人公の顔のクローズアップと手振れ主観カメラの切り替えしで緊張感を高めながら行ってみたら、実は単なる剥製屋だったというギャグ(店内のいかめしさが余計に可笑しい)。面白いギャグだと思うんだけど、アンブローズ・チャペルと聞いて、礼拝堂ではなく人物の名前だと思い込むって、そんなことがあるのかなぁ、と思った。チャペルという苗字はありふれたものなのだろうか。よくわからない。
それと物語の冒頭、主人公一家がモロッコ人の操る馬車に乗り込むと、行き先も言ってないのに動き出すシーンがある。子どもが女性のベールを剥がそうとして怒られる場面とか、食事のマナーの違いに戸惑う場面とか、エキゾチックな部分を強調しているようで嫌な感じ。端的に必要性の感じられないシーンなので、余計にオリエント的な印象が強い。