『裏窓』

『幻の女』を書いたウィリアム・アイリッシュの別名義であるコーネル・ウールリッチ原作を大幅に改め、豊かな肉付け(特に色気)を行った作品、それがヒッチコックの『裏窓』である。ヒッチコックの映画は20本くらいしか観てないのだけど、その中では一番好きな作品。まさに「映画そのもの」というべきものである、と思う。
主人公は足を骨折したカメラマン。彼の楽しみはアパートの窓から隣人たちの生活を眺めることだけであった。そんなある日、主人公は向かいの家に住む大男とその奥さんの喧嘩を目撃するのだが、その翌日には奥さんが消え、大男は肉切り包丁と鋸を新聞紙に包んでいた。奥さんは大男に殺されて、バラバラに解体されたのでは?主人公はそう考えて調査を始めまることに。
この作品の舞台はたったの一箇所、主人公の住む部屋だけであり、事件の起こる向かいのアパートは主人公の視線を通して描かれるにすぎない。この、あえて舞台を限定する手法は『救命艇』でも用いられたが、この作品では主人公が誰にも見られないこと、主人公を消してしまうことで、主人公の視線をより効果的に描き出している。この映画の数年前に作られた「ロープ」とは一見対照的なようで、「眼」の隠蔽によって視線を描いたという点で同じものであると言えるのかもしれない。
中庭に面した4つの建物、このうち3部屋は主人公の視線を通して描かれるが、主人公の住む残りの1つが客観的にとらえられる機会は1度しかない。物語の終盤、一方的に覗き見る立場にあった主人公は、相手に築かれたことによって自分もまた見られていることに気づく。主人公のもとに迫る犯人。暗闇の中でそれを待つ主人公は、カメラにストロボをセットする。近づいてくる犯人に、カメラのフラッシュをたいて、眼を眩ませようとする。見られることを拒絶し、一方的に見る立場にい続けようとする主人公。しかしその試みは失敗し、犯人によって窓から外へ突き落とされる。映画の中で主人公の住む建物の外観が映されるのはこのときだけである。
モチーフにおいては『断崖』と共通する点が多い。どちらも「彼は殺人者なのか」と疑う話である。そして、殺人者であることを示す兆候を見逃さないように、「彼」を凝視する。結末は正反対であるが、それよりもむしろ、「覗き趣味」の映画でありながら、いわば「覗き足りない」という欠如によって物語が進んで行く、という点が重要である。決定的な出来事は既に終わっていて、それを主人公は見逃している。今度こそ見逃さないようにしなくては……という強迫観念が、物語に緊張感を生み出しているように思われる。
それにしても、この映画ほどヒッチコック流のサスペンス、ユーモアが発揮された作品はないだろう。登場人物を襲う危機がどのようなものであるか、観客には十分に伝えられている。登場人物はそれを知らない。この非対称性が、サスペンスを盛り上げる。例えば、殺人の証拠をつかもうとグレース・ケリーが犯人の部屋に侵入する場面がある。犯人がいつ戻ってくるかわからない。主人公は自分の部屋から中庭を監視し、犯人が戻ってきたら合図をする約束をしている。ところが主人公は関係のない部屋を覗き見し、それによって犯人が戻ってきたことを見逃してしまう。主人公の意識と、観客の意識とのズレ。これによって、主人公が覗いている部屋で行われている平凡なドラマが、我々にとってはこの上なくスリリングなものとなる。
電話で真面目な話をする主人公と、下着姿で部屋を歩き回る女性とをモンタージュで組み合わせることで、主人公の表情は変化していないのに何となく言葉と表情が一致していないような気がする、そんな演出も面白かった。これは、映画の基本はカット割りである、ということを思い出させてくれる、私にとって最高の映画のひとつである。