サバルタンについて

スピヴァクの「サバルタンは語ることができるか」を再読。なるほど、面白い本だと思う。安丸良夫の民衆史と合わせて読みたい。知識人であるがゆえの孤独を引き受けなければならない、サバルタンの代わりに語ろうなどと思ってはいけない、ということは安丸自身も(主にあとがきで)繰り返し述べているのだけど、それを踏まえてもなお、サバルタンを語ることには本質的な困難がつきまとう。スピヴァクによってその困難が明確化された、と思う。
たとえば、中東あたりには「パトロニミック」という習慣がある。個人の名前を「固有名+父親の名前+祖父の名前+曽祖父の名前……」という風につける習慣のこと。これは「それ自身の存在への真の合致」というものがいかに人為的で社会的なものであるかを端的に表している。
では、サバルタンが声を持つようになること、つまりサバルタンでなくなるためにはどうすればいいのか。それには、人々をサバルタンたらしめているルールを脱構築させることが必要になる。本書では自殺によってサティーの意味を書き換えた女性の話が出てくるが、安丸民衆史でも、実は似たモチーフが現れる。かなり長いけど引用してみよう。

「一般的にいえば、通俗道徳的自己規律の真摯な実践は、現存の支配体制の内部でのささやな上昇を可能にして支配体制を下から支える役割をはたし、社会体制の非合理的なカラクリをみえにくくするものとしなければならない。むしろ、通俗道徳を教える思想家は、現存の支配体制をすすんできわめておめでたく讃美しているばあいが多い。……だが、他方で、通俗道徳的自己規律が実践される実践の場において具体的に考えてみれば、それが変革的な意識へと転化しうる可能性も容易に把握できると思う。……支配階級のしえる道徳をタテマエどおりうけいれ真摯な自己規律を実践しておればおるほど、その道徳律をタテにとった支配階級にたいする批判はきびしいものになる。私は、近世から明治にかけての民衆闘争をささえる論理は、こうした道徳主義であったと思う。……儒教道徳の普遍主義的側面を民衆の立場にたって実践化してゆけば、変革的な論理がうまれざるをえないのである。」
(「民衆道徳とイデオロギー編成」p72〜75)

支配階級のルールに則りながら、ルールを乗っ取ってしまうこと。この時期の安丸は安保闘争という時代背景もあって「主体」という言葉を用いているが、そのような言葉には収まらない、集団的交渉の中で自然とその存在を変容させていく「エージェント」として民衆を捉える見方が既に存在していたことを感じさせる。


追記

id:horai551 "その道徳律をタテにとった支配階級にたいする批判はきびしいものになる" どういう方向で批判するか、そもそも誰を「支配階級」と認識するかって問題があるような。

これはもっともな指摘で、それを確認するためには同じ安丸良夫の『出口なお』を読めばいいと思う。大本教を開く出口なおは、上述した「道徳律をタテにとった支配階級にたいする批判」を行った典型的な人物のひとり。
彼女の批判の方法は、片方に「通俗道徳が完全に実践された真実の日本」を置き、それと比較する形で「退廃的な現在の日本」を攻撃する、というやり方だった。本当の日本はこんなに素晴らしい国なのに、どうして今の日本はダメなのか、それは道徳が守られていないからだ、ということ。自らの理想とする道徳を「本来の日本」に重ね合わせることが体制批判の手段に留まっている間はともかく、批判精神が弱まれば、それは単なる日本の美化に繋がってしまうわけで、後に大本教国家神道へ取り込まれていく原因をそこに見ることは可能だろう。
そして誰を「支配階級」と認識するのか、という問題。出口なおが一番激しく攻撃したのは警察官や徴税官であり、また、村の富裕層であった。天皇や国家への批判も含まれるが、上述したように「本来の日本」が良いものとして仮定されていること、なにより「実感」の欠如から前者ほど厳しくはない。
社会や国家にまで何かを訴え教団を大きくしていくためには、教主個人の人格に依存するところが大きい「通俗道徳」では不十分であり、「平和」や「民権」といった普遍的テーマを取り上げざるを得ない。そして、そのような普遍的テーマを唱える際には、テーマと上述した「本来の日本」との重ね合わせが行われる、というのが戦前においては一般的なやり方であった。
要するに、「道徳律をタテにとった支配階級にたいする批判」は地域有力者に対する批判、地域の改良では大きな力を発揮するものの、それが国家レベルへ広がって行く過程で妥協が生まれる、ということである。