安丸良夫『出口なお』

「出口なお」―女性教祖と救済思想 (洋泉社MC新書)

「出口なお」―女性教祖と救済思想 (洋泉社MC新書)

出口なお』は、安丸の最高傑作という人もあれば、あれはもう歴史学ではないという人もいる。自分は「歴史学の言葉で、歴史学のアドレスをずらす」ことが本書の目的であると考えているので、どちらの意見も間違ってはいないと思う。確かに歴史学の本というよりは、ルポルタージュに近い印象を受ける。理由のひとつは扱う史料。出口なおの書いた「筆先」と呼ばれる、書き殴られたメモ書き、教説を元に伝記を書いている。筆先は断片的な記述がほとんで、その隙間を安丸はかなり自由に想像している。それを歴史学からの逸脱、と考えることは可能。
ただ、それよりは書き言葉ではなく話し言葉で書かれた筆先を根本資料として用いたこと、それ自体が非常に重要な点であると思う。あまり意識しないけど、文献史学が扱うものの大半は書き言葉で書かれていて、話し言葉で書かれたものは公的でないものとして軽視されてきた、と言えるかもしれない。パロールとラングの二項対立というか、みんなパロールの方が真実を伝えていると思っているのに、「書かれたもの」として現れると、いかにもラングらしいものの方が真実味があると考える。
ところで「サバルタンは語ることが出来ない」という場合、「何を」語ることが出来ないのか。「全体性」についてである。自分が社会の中でどのような位置にいるのか、サバルタンは語ることが出来ない。書き言葉とは、文化史的にみて、その「全体性」の産物ではないか。書き言葉に真実味を感じるのも、解釈者である自分と相手が同じ全体性の中にいると思っているからではないか。
なおの「筆先」を一種の方言であると考えれば、よりわかりやすいかもしれない。方言、あるいは古めかしい言葉遣いで書かれた資料を、歴史学者は現代語に翻訳して利用するが、ルポルタージュでは方言を方言として引用するものが少なくない。そもそも方言とは何かと言えば、それは標準語の対概念として生まれたものである以上、標準語とは何かを問うことによって答えとしなければならないだろう。我々が方言で、あるいは言外のニュアンスをたっぷり含ませた会話をする世界の外に見たことのない、しかし均質で親近感を覚える、他者性のない他者が住んでいる世界がある。そうした世界を前提として、はじめて標準語が生まれる。それはつまり、「全体性」の所産だ。それに対して方言を意図的に使うということは、「全体性」から疎外されたサバルタンを描く上でとても重要なことのように思える。
そう考えると、安丸が話し言葉(方言)を重視したのは、「全体性」を持たないサバルタン的人物を書くために取った必然的手段であると同時に、「全体性」によって覆われることのない、自身と相手の距離を前提としていたためではないだろうか。後の対談でも安丸は『出口なお』について、自分が「筆先」を出口なおと同じように理解していたわけではない、自分に出来ることは筆先の内容を、自分に理解できるように「置き換える」ことだけである、と述べている。
ただ、それでも『出口なお』は神憑りを通してなおが「全体性」を獲得し、サバルタンから脱するところに主眼が置かれているのを見逃してはいけない。だからこそ、なおの発言を「そのまま」引用したあとに「〜とあるので〜だと言えるだろう」という風に、彼女の発言を議論全体の文脈に位置づけられるのである。これが小説であれば、発言のあとに「これは〜を示している」なんて言葉は絶対に表れないし、ルポルタージュでも著者自身が当事者として現れるタイプの作品ではほとんど使われない。脱時間的な視点を持ち、かつ何かを論証することに主眼を置く歴史学的思考によって初めて可能になる文体なのである。