『汚名』

汚名 [DVD]

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ヒッチコックにも凡庸な作品、つまらない作品はいくつもあるけれど、悪役が魅力的に描かれている作品は例外なく面白い。『見知らぬ乗客』とか、『サイコ』とか。『汚名』もそのひとつで、主役のケイリー・グラントがあまり目立たないくらい悪役のクロード・レインズが印象的である。
個人的に一番良かったと思う場面は、結婚した女性がじつはスパイだったことに気づいた男が、ロビーを通り抜け、階段を登り、彼女の部屋へ向かう一連の動きをワンカットで描く場面。ロングでエモーションを高め、最後にはカメラの間近に立って彼の決意を印象付ける。あるいは主人公とヒロインがワインセラーに忍び込み、目的の品物を探しているところに、悪役の男が近づいてくる場面。ここも非常にヒッチコックらしい場面だが、男がもうすぐやってくる、ということを、カットバックを用いてわかりやすく描いている。例えば『見知らぬ乗客』で主人公と悪役とがどちらが先に目的地に着くか、カットバックを用いて競争させたように。あるいは『知りすぎていた男』で暗殺者の銃弾が発射されるタイミングを、オーケストラの楽譜を通して観客に教えたように。観客が十分な情報を持っているからサスペンスが生まれるのだ、という考えは徹底している。『汚名』の場合は、パーティー会場のワインのストック。ストックが無くなったら、主人公たちが今まさに忍び込んでいるワインセラーに人が来てしまう、ということを私たちが知っているからこそ、ワインセラー内でのちょっとしたトラブルにも緊迫感が生まれる。
パスカル・ボニツェルは、ヒッチコック映画のセットは単なる舞台ではなく、登場人物と観客を捕らえる迷宮であると表現したが、私もそれは正しいと思う。スパイであることが知られてしまったヒロインは、広い屋敷の一角に閉じ込められてしまう。そこは寝室で、愛のない結婚をしてしまったヒロインが閉じ込められる場所としては、まったくふさわしい。そして、愛した女性がスパイだと知った男が彼女の元にたどり着くまでには、屋敷のエントランスを通り抜け、曲がりくねった階段を登っていかなくてはいけない。そうしなければ彼の変心は表現できないのである。映画は最後にヒロインが屋敷から脱出し、失意の男が屋敷の中に戻り、入り口の扉が閉じられる。屋敷から逃げられたヒロインと、逃げられない男。この男には不幸な運命が待ち構えているわけだが、それを暗示しているように思える。