研究メモ2

・左右田・福田論争のすれ違い
左右田は貨幣材料の成立を、自分は貨幣の成立を語っているのだと福田。正確には「左右田は貨幣意識(貨幣という概念)の成立を、福田は貨幣経済(媒介を用いた価値の移転)の成立を語っている」と言うべきだろう。福田は左右田の問題意識を理解していないのではないか。

・社会論の根本的な難しさ
なぜ社会を語る必要が出てくるのだろうか?
→国家によるトップダウン的な統治の限界が意識され、下からの秩序が要請される。しかし、このとき既に「神の見えざる手」式の「下からの秩序」論の限界も自覚されている。
1.個人の振る舞いからなぜ秩序が生まれるか(特殊の集合がなぜ普遍へと変化するのか)
2.なぜか生まれてくる社会を、しかも国家や個と適合的なシステムへと設計していかなければならない(社会問題への関心)。それは、きわめて難しいことである。
→手がかりとしての貨幣論(設計者なしに生まれたシステムであると同時に、人間がある程度コントロールすることも可能)。もし、社会の改革を目指さないのであれば、起源を問う必要もない(むしろ起源を忘却したほうが社会は上手く動く。貨幣も同じ)。

・貨幣社会論の二類型
なぜ利己的な人間が、社会的な貨幣を作れるのか?
1.利己的人間が貨幣を作るではない。人間の観念にアプリオリに貨幣(社会)の概念が与えられているのである。→左右田にもこの傾向はあるが、むしろ福田の方が適合的か。
2.現実の貨幣は問題ではない。我々人間の論理的な、共同幻想として「貨幣」がある。→左右田。貨幣を意識の問題に還元。現実の貨幣経済とはずれが生じるが、そのときは現実否認に走る。
いずれの場合も、「利己的な人間によって社会が作られる」という前提を修正する。個と全体を調停不可能なものとみる二元論。この立場の帰結は、「1=困難な問題を回避するために最初からひとつの有機体しか考えない立場」「2=論理的には部分の総和が全体と考える立場」である。いずれも自社会中心主義的。

・構造と力
上記の2元論はなぜ生じるのか?
すでに与えられた「構造」を分析するだけでなく、その構造を生み出す「力」について考える必要がでてくる。その力は構造の外に求められる。しかし、これは構造の謎を、それを生み出す力の謎に置き換えたにすぎない(福田の場合、なぜ貨幣の原型となる宗教儀式が生じたのかをさらに問うことができる。左右田は「力」を「アプリオリ」と言ったにすぎない)。

ジジェクユダヤ人差別論と「社会」の意味変換
貧困、不道徳、生活、政府といった「名指された要素」の集積として生じた社会が、やがて要素よりも「社会」という名前の方が重要であると考えられるようになり、内容を欠いた空虚な記号として流通するようになる。そのため、「社会」の内容は科学によって充填されなければならない。田子「社会って何なのかよくわからない」という疑問と共に「社会局」は成立し、科学的調査によって社会は満たされていく。