乃木希典を巡る諸相

伏見のほうに行く機会があったので、ついでに近くの明治天皇陵、乃木神社に寄ってきた。いつ、私がデモクラシィ思想に洗脳された人間であることを見抜かれて「ここに非国民がいるぞ!」と後ろ指さされるか緊張しながらうろうろしていたが、特に何も起こらなかった。

そんな被害妄想はさておき、高校生のころ司馬遼太郎の『坂の上の雲』に熱中した自分としては、乃木神社の資料館で「軍人・乃木」が褒めちぎられていたことに違和感を覚えた。もちろん『坂の上の雲』は小説だが、『機密日露戦史』でもあまり高く評価されていないし、戦争中に山県有朋も乃木をやめさせなければ困ると考えていたらしく、やはり軍人としての能力に問題があったことは間違いない。
ただ、どこか人間的魅力のある人物だったのだろう。乃木が殉死すると、漱石は『こころ』を書き、鴎外は『興津弥五右衛門』を書いてこれに応えた。
その一方で、志賀直哉は日記にこう書いている。

「乃木さんが自殺したといふのを英子からきいたとき、馬鹿なやつだといふ気が、丁度下女なんかが無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた」

この両極端な反応に、大正という時代の文化的な豊かさを感じるのは僕だけだろうか。もうひとつ、『芸術新潮』1987年4月号の特集「大正かくありき」から、明治天皇の大喪当日のエピソードを紹介。

この日、当時某新聞社にいた生方は御大喪の取材を終え帰社。記者たちが原稿を書いている最中に乃木自刃の報が入る。が、誰も信じない。電話が三度あって、ようやく本当らしいと知れたときの部内の反応は“何でまたこの忙しい時に”というものだった。原稿を書き直し、紙面を組みかえねばならない。不満がエスカレートして、罵詈雑言となり、終いには軍人としての能力を疑う発言まで飛び出す。生方は乃木事件の取材に出かけて戻ったあと一足先に引き上げるのだが、翌日の新聞をみてびっくりする。軍神乃木への美辞麗句が連なっている。「昨日乃木将軍を馬鹿だと言った社長のもとに極力罵倒した編集記者らの筆に依って起草され、職工殺しだと言った職工たちに活字に組まれ、とても助からないとこぼした校正係に依って校正され、そして出来上がったところは『噫軍神乃木将軍』である」(『明治大正見聞史』大正15年』)

これがしばらくすると信仰の対象となり、ついには『乃木式』という雑誌まで作られるようになるのだから不思議なものだ。ちなみにこの『乃木式』、陸軍軍人の間では広く読まれていたのだが、その内容は、食べ残した弁当を乃木将軍は傍にいた子どもにわけてやったという類の美談が延々と書かれているものだったらしい(実物を読んでいないので伝聞)。

あと、こんなことを書いても仕方ないかもしれないが、乃木神社で「国のために戦った英霊に感謝しましょう」的なことが書かれた碑を見かけて、少しむっとした。「国」が好きな人も嫌いな人も、戦いたい人も逃げ出したい人も、全ての人を動員するのが近代の総力戦であり、だからこそ悲惨なのではないか。そのメカニズムに対する主体的な反省(神社はまさに当事者だ)なしに「戦争は悲惨だ」と言ったところで、何の意味があるというのか。
もっとも日米開戦に当たっては、高村光太郎が『暗愚小伝』で

詔勅をきいて身ぶるいした。(中略)
天皇あやうし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。(中略)
身をすてるほか今はない。
陛下を守ろう。

と思いつめたように、多くの国民が戦争遂行に意欲を見せたのも事実である。この日本的ファシズムのあり方については別の機会に詳述してみたい。