山県大弐『柳子新論』と革命について

柳子新論 (岩波文庫)

柳子新論 (岩波文庫)

読了。明和事件で刑死した山県大弐の代表作であり、垂加神道や崎門学派、竹内式部などによって造成された尊王斥覇思想のひとつの到達点である。はっきりと「討幕」を方針として打ち出したという点で重要な一冊。
この『柳子新論』における討幕の根拠というのは、「名」と「実」が一致していないこと、つまり名分上は天皇が最も尊いはずなのに実権は幕府が握っているため、これでは君主が二人いるようなもので民に示しがつかない、この現状を変えなければならない、ということである。

「それ文は以て常を守り、武は以て変に処するは、古今の通途にして、而して天下の達道なり。如今、官に文武の別なし。則ち変に処る者を以て常を守る、固よりその所に非ざるなり」

「国の為に計る者、またただ官制を復し、以てその名を正し、礼楽を興し、以てその実を示すにしかず。君臣弐なく、権勢一に帰し、令すれば行はれ、禁ずれば止み、しかる後君子位にあり、小人帰する所あるなり。これをこれ得一の道といふ」

この他に現実の政治批判も行っているわけだが、ありきたりなので割愛。ともかく、山県大弐の討幕論の中心を占めていたのは大義名分論に基づいた「権力を天皇の下に返して名と実を一致さなくてはいけない」という主張であったと言えるだろう。
『柳子新論』は大弐が刑死した後も写本が作られ、幕末には吉田松陰のもとにもたらされた。松陰はそれを読み、それまでの幕府を改革するという考えを捨て、討幕論に転じたという。
少し話が横道にそれるようだが、このような放伐論において重要なのは、封建思想と対立する「下」のものが「上」を倒すという事実をいかにして正当化するのか、ということであると思う。明治維新を例に取ってみると、実際的な議論としては奇兵隊のように一般民衆が討幕に深く関わっていたので、ある意味「革命」と呼べる要素が多分に含まれていた。ただ、お題目としてはあくまでも君主=天皇が逆臣=幕府を征伐するという形式を取っていたわけで、ちょっとわかりづらい。
この辺の議論を扱った新書に『反「暴君」の思想史』というものがある。

反「暴君」の思想史 (平凡社新書)

反「暴君」の思想史 (平凡社新書)

この中では、日本においては儒教が受容される際に、孟子の暴君放伐論がスポイルされた、あるいは現実社会に適用不可能なものに変質してしまった、ということが主張されている。中国とは異なり、日本は万世一系天皇が治めているので暴君放伐論は必要ない――というわけで、上田秋成の『雨月物語』でも孟子を積んだ船は嵐にあって沈んでしまうという話が引用されている。もし主君に反抗する場合も、自分の利益を度外視し、多くの人の同意を集め、粘り強く諫め、それでもだめだった場合にしか反抗してはならない。つまり、反抗する側にも厳しい条件が課されているのだ。「主君が暴政を行ったので」というだけでは、駄目なのである。
『柳子新論』では以下のように書かれている。

「苟も害を天下になす者は、国君(将軍)といへども必ずこれを罰し、克たざれば則ち兵を挙げてこれを討つ。故に湯の夏を伐ち、武の殷を伐つ、また皆その大なる者なり。ただその天子より出づれば、則ち道ありとなし、諸侯より出づれば、則ち道なしとなす。況んやその群小より出づる者をや。故に善くこれを用ふれば則ち君たり、善くこれを用ひざれば則ち賊たり」

天下に害を与えるものはたとえ将軍であったとしても討つべきである。湯王が桀王を討ち、武王が紂王を討ったように。たとえ身分の低いものであったとしても、天子のためにそれを行ったのであれば正当化される。
では、天子が暴政を行ったときは?将軍のときと同じように征伐すれば良いのか?
吉田松陰の「諫死」の思想はこの矛盾を解消するひとつの手段であると考えられる。