土地と権力

近代の権力は基本的に人と土地の繋がりを強くする方向に作用する。住所が確定しないと職に就けなかったり、政治に参加出来なかったり。そうしないと徴税と徴兵が出来ない、というのがその主な理由だが、この事実は現代でも第三世界の近代化を考える上で重要な意味を持っている。
つまり、住所が確定しないことが常態である人々(ジプシーなど)を土地に縛り付けるために行われる暴力が、「近代化」という美名のもとに行使される権力には必然的について回るではないか、と。


昨日、知り合いとこんな話をした。
南米のある都市では、人口が急激に減少している年があった。それについて「この年に国家による大量虐殺が行われた」というのが通説であったが、最近、「虐殺が行われたのではなく、住民が一斉に逃げ出したので人口が減ったのだ」という新説が出された。そこから「網野善彦の言う『漂泊民』は本当に自由なのか」という話に横滑りし、漂泊民をどう評価するかで意見が分かれた。
知り合いの考えでは、農民が漂泊民化すること、つまり土地を離れられてしまうということは税金を徴収出来なくなることであり、政治の失敗を意味する。そのため、この漂泊民は民衆の自由の表れである、と言える。
僕の考えでは、漂泊民化するのは民衆に対して過酷な収奪が行われた結果そこに住めなくなったためであり、自由を過度に強調するのは危険ではないか、ということになる。
この問題に答えを出す手っ取り早い方法は、ひとりの農民が漂泊民化する過程を追いかけることだが……無理だよなぁ、史料的に。