学校の二宮金次郎像と社会教育の関係

今でも小学校の片隅に二宮金次郎(尊徳)の銅像を見かけることがある。最近ではすっかり数が減ったとも聞くが、僕が通っていた小学生では当時(十年くらい前)、校庭の片隅に薪を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎が立っていて、今でも「勤勉」という言葉を聞くと僕はその姿を思い出す。
さて、その二宮金次郎像の普及についてであるが、学校に建てられた時期は昭和八年から同十五年に集中している。その直後、昭和十六年に金属類特別回収令が出されたことでブロンズの金次郎像は「出征」していくことになるのだが、戦後になると再び元の位置に立てられ、その数はむしろ増加していったという。
今回のテーマはその「二宮金次郎」についてであるが、近代における二宮金次郎と彼の思想(「報徳思想」もしくは「報徳教」)は主に内務官僚と民間人による半官半民の団体「中央報徳会」によって宣伝され、社会教育において大きな影響力を持つに至った。しかし、その思想内容や宣伝意図が常に同じであったわけではなく、時代背景とパラレルの関係にあったと言える。今回は主に中央報徳会の動きを追いながら、近代における社会教育について考えてみることにしよう。


中央報徳会(当初は単に「報徳会」)は明治三十八年十一月、東京音楽学校における「二宮尊徳翁(没後)五十年記念祭」の開催をきっかけに結成され、三十九年には機関紙『斯民』の発行を始めるなど、まさに日露戦争後の多難な時期に活動を始めた団体であった。創立当時のメンバーに平田東助・井上友一・一木喜徳郎などの国家官僚、とくに内務省系の官僚が多く含まれていたこと、また『斯民』の記事執筆者にもやはり内務官僚が多く含まれていたことから、この中央報徳会は先述した通り半官半民の団体、内務省の末端機関とみなされている。
では、なぜこの時期に内務省二宮金次郎/報徳思想に注目したのか。創立メンバーのひとりである一木喜徳郎は『斯民』創刊当時を振りかえって以下のように述べている。

「恰も日露戦役の後に当り、国家の位置は一大変化に際会し、国民の負担は激増したのであって、戦後国運の発展を図るには、如何にしても経済力の増進を期せねばならぬ、差当り二十億円の国債償還の手段を講ずることが必要であった。それと同時に、一方に於ては種々経済会に弊害を生ぜんとする虞があったので、道徳と経済の調和を図り、所謂推譲の精神を旺ならしめて、其の経済の発達に伴う欠陥を補ひ、余弊を除くことに努めんが為に、同志相集って、二宮翁の没後五十年を機とし、上野の音楽学校に於て其記念会を開き、それに引続き中央報徳会を組織し……」
  (一木喜徳郎「創刊十五年に際りて」『斯民』第十五編四号)

「経済の発達に伴う欠陥」これは労働争議の頻発、そして農村の疲弊を指してのことである。これらの問題解決と、膨大な戦費によって危機に瀕した国家財政、そのしわ寄せを受けた地方自治体の財政を立て直すために「分度と推譲」(各財政における支出の限度「分度」を定め、それを超えた収入は「推譲」つまり積み立てるか社会に提供させること)を核とする報徳主義の農村復興(これを「仕法」という)が注目されることとなった。
ただ、中央報徳会が主張した「仕法」が、農民に対して単に忍耐を強要する消極的な運動ではなかったことには注目しておきたい。上の引用文にもあるとおり「道徳と経済の調和」を前面に押し出していくことで、一部では勤労による立身出世を肯定しながら、報徳主義を消極的イメージから積極的イメージへ、農業に関する教えから社会全般に教えへと転化させようとしたのである。

「二宮翁は主として農民の為に其教を立てたり。且其事蹟も亦概ね農村の復興を以て異彩を放てり。是を以て人或ひは、翁の教が単に地方農村にのみ行はるべきものなりと誤解したるも少なからず……(中略)……是を以て人亦誤解すらく翁の道は、消極の一辺を走れりと……(中略)……二宮翁の教は、寧ろ積極の教なりき。又決して農村のみに限らるべきにあらず。予等同志が、一世に率先して、翁の教を鼓吹したるも、実は其積極にして、都市農村を通じて、貴賎貧富を論ぜず、総て遵奉すべき卑近の教極めて多きに取りたりし也」
  (岡田良平「回顧三年の感」『斯民』第四編二号)

そして、明治四十一年以降に展開される地方改良運動は、これまで見てきたような中央報徳会の主張を全国規模で反映させようとするものであった。同時に、この時期の中央報徳会はその地方支部である「斯民会」を、行政区域を単位として全国的に設置し、行政ルートを通してその影響力を地方へと浸透させていったのである。


しかし、大正時代に入ると内務省においても地方改良運動熱は低下しはじめ、中央報徳会の活動は青年団・町村会長の育成へと重点を移していくこととなる。

「地方的青年団はもと町村又は部落に於て、若衆などと云て同一地方に住居する者の間に自然に発達したものを基礎として、近年政府が之を指導奨励した結果、著しくその数を増加するようになったのである。……(中略)……又近来都市に於ける青年団の組織が奨励された為に、同業者又は同一工場を以て一団を形成するものも又出来てきた」
大原社会問題研究所『日本社会事業年鑑 大正11年』より―

大正八年から始まる民力涵養運動においても、地方改良運動の時と同様に中央報徳会によって盛んに講演会・講習会が開かれるのだが、その内容は当初の「報徳思想の啓蒙」という講演会を中心とした思想改善運動から、活動写真を主体にした「民衆化=俗流化」、思想改善運動から生活改善・倹約奨励中心の「限定化」という2つの方向に純化されていくこととなった。それに合わせて、大正時代前半までの修身教科書において頻繁に登場していた二宮金次郎が、徐々にその姿を消していくことも注目に値するだろう。第一次世界大戦後の政党政治期において、報徳思想の重要性は最も低下していたいたと考えて良い。


さて、大正時代の「民衆化=俗流化」、生活改善・倹約奨励中心の「限定化」という流れを引き継ぎながら、昭和に入り戦時体制へと移行する中で報徳思想に新たな意義が与えられることになる。国家レベルにおいては、分度・推譲・仕法といった報徳思想の内容が国家機能を戦争へと集約する中で滅私奉公を美徳とするイデオロギィとして再評価され、地方レベル、とりわけ世界恐慌によって大打撃を受けた農村では生産・消費の合理化進める実学的教育の中核として、報徳思想が教育者に受け止められていった。
もともと内務省と文部省の間で思想善導に対する考え方には大きな違いがあり、内務省が民衆の「享楽主義」「軽佻浮薄」的な傾向を問題視して倹約を呼びかけたのに対し、文部省ではむしろ消費の「合理的」促進を呼びかけるという分裂を見せていたのだが、昭和期に入るとその傾向は一層大きくなる。
とりもなおさず、この時期には「道徳と経済の調和」という報徳主義のイデオロギィは影を潜め、上述した意味での農村教化のシンボルとして再評価されることとなる。学校の二宮金次郎像は、いわばその教化運動のマスコットとして大量に建てられることとなった。


最後に、戦後の昭和二十一年九月に報徳連合会が結成されたことを伝える『斯民』第四十編第五号の記事を一部抜粋の上で紹介する。

「日本最初の民主主義者とも称される尊徳翁の興復永安の道を普及することは最も時宜に適ったことと思はれる」

「道徳と経済の調和」から「実学」、「滅私奉公」、そして「日本最初の民主主義者」。めまぐるしく変化する二宮金次郎の思想的意義。書き漏らした点も多いが、長くなったので今回はこのくらいで。