バタイユと戦争

澁澤龍彦を通してジョルジュ・バタイユを知った私にとって、バタイユという思想家はエロ・グロ・ナンセンスな作品に触れるときに思い出す程度の神秘主義者でしかなかった。
しかし最近、冷戦下におけるバタイユの思想展開を調べているうちに、どうもそうではないらしい、ということがわかってきた。彼の思想における大きなテーマ、例えば「聖なるもの」「非―知」といったモチーフは、芸術だけでなく政治や経済など西洋の社会現象一般について考える上で極めて重要な示唆を与えてくれる。今回は、特に「戦争」というテーマを通して、バタイユの思想に少しだけ触れてみよう。


バタイユの基本的な考えはこうだ。
近代の西洋社会は「生産と蓄積」を至高の価値として位置づけ、消費はその準備にすぎないものとして重要視されていなかった。しかし本当は、「生産と蓄積」の対極に存在するようなもの、つまり、非生産的で、一瞬で消えてしまうようなものこそが重要なのである。祝祭、芸術、性行為、見世物etc……。バタイユは、何百年も同じ場所に建っている豪華な教会ではなく、そのとき限りの神秘体験の中にこそ「聖なるもの」があると考えた。
冷戦下のヨーロッパが共産主義かそれとも反共かということで揺れ動いていたときも、バタイユは上記のような立場から、実は資本主義もマルクス主義も大きな違いはない、という結論に達していた。両者は共に「いかに生産するか」を問題としていること、言い換えるなら「生産」を至高の価値としている点で同じものである。
一方で、「消費」は何も利益をもたらさないものとして罪悪視されている。特に共産主義国でこの傾向が顕著だが、そうすると、生産と消費のバランスが崩れ、余剰生産は戦争という最悪の形で消費されるほかなくなるのではないか。バタイユの問題意識はここにあった。

「世界全体をいつ爆発するかも知れぬ巨大な火薬樽に変えてしまったこの前例のない蓄積を、戦争なしに消尽することが重要な問題なのだ」
  ジョルジュ・バタイユ『至高性』より

このようなバタイユの危惧は、おそらく彼も考えていなかったであろう、ケインズ主義に基づいた資本と国家財政の結びつき、そしてそれによる軍事費の増大という形を通して冷戦下に実現した。以下、やや込み入った説明が続くけれどもご容赦いただきたい。


ケインズ主義を貫く大きな柱は「投資は需要を生み出す」という点にある。例えば政府が100億円を投資して、大きなダムを作るという場合を考えてみよう。100億円受け取ったゼネコン業者は、そのうちの50億円で資材を購入してダムを完成させ、残りの50億円を利益として確保するだろう。利益は作業員の賃金や設備投資に還元され、そこに50億円分の需要が生まれる。次に、資材業者はゼネコンから50億円を代金として受け取り、そのうちの25億円で原材料を購入し、残りの25億円を利益として確保する。そして、その25億円が潜在的な需要となる。さらに原材料業者は資材業者から12.5億円を受け取って……
という要領で、1回の投資が連鎖的に需要を生み出していく。これが、第二次大戦後に一般的に行われるようになった不況対策であり、一見すると非常に良くできたシステムのように思われる。ただ、ここにはケインズが見なかった重大な問題が存在する。それは、「出来上がったダムが与える影響」である。
大きなダムが完成すれば、色々な人が利益を受けるだろう。農業の生産性は向上し、水力発電の装置を取り付ければ電気代は下がり、工業の生産性も向上する。つまり、投資の影響は不況対策に留まらず、商品の供給能力を高める可能性があるのである。供給能力が高まれば、それに見合った需要を生み出すためにより大きな投資をする必要が出てくる。この状態を放置すれば、投資がさらに供給能力を高め、さらに大きな投資をする必要が生まれて、供給能力がもっと高くなって、必要な投資がもっともっと大きくなって……という無限ループを繰り返し、生産能力と現実の生産量とのギャップが開き続けることになるだろう。
これを避けるためのもっとも現実的な方策は、投資の対象をダムのような生産性の向上に役立つものではなく、もっと無駄なものにすることである。第二次世界大戦後、これは軍事費の増大という形で実現された。特にアメリカでは冷戦を背景に、アイゼンハワーが政権を保っていた8年間で3500億ドル以上が軍事費として支出され、それによって兵員を養い、核兵器を貯蔵し、各種通常兵器が生産されることになったのである。
もちろん、生産性の向上に寄与しない投資先は軍事だけではない。福祉、医療、教育などいろいろ考えられる。それは政治の課題というほかないのだが、膨大な投資の受け皿としての軍事産業を維持するために仮想的が必要とされ、国民を戦争へと駆り立てていくことは、上述したような「無駄な生産の制度化」がもたらす当然の帰結のひとつであると言えるだろう。


バタイユの話に戻るが、彼は先に引用した『至高性』の中で、共産主義を以下のように評している。

人間は、何にも還元できない欲望として、情熱的に、気まぐれに存在しているのだが、共産主義はこの欲望に、全面的に生産活動に専念する生と両立可能な我々の欲求を置き換えた。

要するに、人間の本質は気まぐれで情熱的で、いろいろな欲求を抱えたものであるのに、共産主義は「生産」だけを重要視した、ということ。バタイユはこれを「大人」の考え方だと見る。「大人」は長期的な目標をたて、それに向かって生産を蓄積し、目標の達成に専念するが、「子ども」は自由気ままで、そのときの気分に応じて勝手に遊んでいる。もちろん、「大人」の中にも「子ども」は存在する。しかし、普段抑圧されているだけに、一度表に出ると戦争や殺人といった恐ろしい形を取ることがある。バタイユが自身の精神治療の一環として描いた小説『眼球譚』もそのような話だ。


ところで、バタイユが問題とした「前例のない蓄積を、戦争なしに消尽すること」、その具体的な方策についてバタイユは何も言っていない。それも当然のことで、瞬間性や非生産性を称揚する立場から「具体的な」方策が生まれることの方がおかしいのである。結局は個々人の「聖なるもの」に対する覚醒に期待するしかなのだが、しかしそれは「生産」を至高の価値とする近代西洋を相対化するとともに、「聖なるもの」に対する個人の卑小さあるいは相対性への気づきを通して他者とのつながりの道さえも開く、根本的な解決策であったとバタイユが考えていたことも確かだろう。