民本主義と普通選挙

今回のテーマは民本主義であるが、主に吉野作造の考えを中心にして議論を展開していこうと思う。
大正五年(1916)の『中央公論』に掲載された論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」で吉野は、立憲政治の根本精神に「民本主義」の名前を与え、政治の目的は一般民衆の利益のために、そして政策の決定は一般民衆の意向によるべきだという原則を提示した。主権概念を棚上げしたこのイデオロギィは古臭く感じられるし、民本主義という言葉自体、吉野の独創というわけではない。それにもかかわらず、以後、民本主義と吉野の名前がセットで語られるようになったのは、当時の官憲から危険思想視されつつも止められない流れとなっていた普通選挙制度の導入を、わかりやすい文章によって理論的根拠を与えた功績にあると言えるだろう。


大正九年(1920)二月、原内閣は男子普通選挙の即時実行の是非を問うために衆議院を解散、総選挙を行うことになった。制限選挙下の三百万人に、残りの九百万人に選挙権を与えるかどうかを問いかけたこの選挙について、陸軍の宇垣一成は「軍人の一団に軍隊の用不用を聞くが如きもの」とコメントしている。
そもそも、初期の帝国議会においては厳しく制限された選挙制度が採用されており、具体的には直接国税15円以上、つまり相当の土地を有する地方エリートや都市ブルジョアにのみ政治参加が許されていた。大正七年に成立した原内閣はまさにこのような人々を支持基盤としていたわけだが、大正九年には戦後恐慌が訪れ、地方名望家に向けて公約された鉄道敷設計画などは着工の見通しが立たなくなり、原内閣の積極政策に対する不信が高まってくる。このような背景から、一部の名望家だけでなく多くの住民参加を踏まえた地域発展策、つまり普通選挙が求められるようになる。その中で、吉野の議論は重要な理論的根拠となった。

「直接其事に当つて居るもの、又之と近い関係に立つて居るものは、兎角其境遇を超越して公平な判断をなし得ないものである。従つて時には其事に丸で関係の無い局外者の無責任な言論を聞くと云ふ事も必要である。(中略)此事は又同時に選挙権を拡張すべしといふ議論の根底にもなると思ふ」
  吉野作造「民衆的示威運動を論ず」『現代の政治』1914.4

「現在の政党は政権の掌握以外に党政拡張の方法をしらぬゆえ、たとひ馬鹿と云はれ阿呆と罵られても、政権には離れまいとする。(中略)政権の掌握に依つて党務を拡張するといふことは、実は其の地位を利用して有形無形の利益を提供し、之に依つて党勢を拡張するに外ならぬ。之を露骨に云へば、政権を利用し利益といふ代償を以て投票を我が党に買ふやうなものである。而して此間に種々の弊害の生じ得るは言ふ迄もない。
右の党勢拡張の報酬たる利益は、各地方の人民一般の利益なら未だしも、多くは一部分の利益、少数なる所謂地方有力者の利益といふことになり勝ちである」
  吉野作造「山本内閣の倒壊と大隈内閣の成立」『太陽』1914.5

吉野は代議政治を貫徹することによって民本主義が実現されるとした。具体的には、普選によって広く民衆の声を反映させること、議院内閣制を取ること、民意に基礎を置かない機関が不当に政治を妨害することを防ぐことなどが挙げられる。民本主義は、実質的には国民主権を志向する考え方であったと言えるだろう。しかし、だからといって国民一般による民衆運動を無条件に賞賛していたわけではない、という点も非常に重要である。
吉野自身は長文の論説「蘇峰先生著『時務一家言』を読む」の中で、徳富蘇峰に対し「先生の政治丈の根本主義は、貴族主義である」と批判し、自身をその対極に位置づけようとした。しかしその一方で、吉野の民本主義にも強く貴族主義的な側面を見ることが出来る。

「抑も民衆の運動と云ふものは自発的であつて且つ積極的である場合に大いに政治上に於て重んせらるべき値を有するものである。人から煽動されて居るのではどうも面白くない。
(中略)
然るに此頃のはどう考へても積極的且つ自発的とは思はれない。どうも之は民衆の勢力といふものは之を結束して見ると案外に強いものであると云ふ事を三十八年九月に経験した所の一部の人が、再びこれを利用して事をなさうといふ頭があつて、之等の者が煽動して、或は煽動せんとする計画に乗せられて起つたやうな風に感ぜられる。殊に今年の煽動の如きは全然消極的で即ち政府反対と云ふ事が唯一の主眼で外に何等積極的の主張と云うものがない」
  吉野作造「民衆的示威運動を論ず」『現代の政治』1914.4

「私の考では、最良の政治と云ふものは、民衆政治を基礎とする貴族政治であると思ふ。所謂貴族政治丈けで民衆政治なければ駄目である。今日我国の政治は正に此弊に苦しんで居る。又、所謂民衆政治丈で貴族政治と云ふ方面なければ之も亦駄目である」
  同上

吉野が海老名弾正の雑誌『新人』から論客としてデビューしたのは日露戦争の頃。吉野は論説で、日露戦争を自由と専制の戦いと位置づけた。ところがその日露戦争終結すると、自由の国の民衆は日比谷公園で暴動を起こすことになる。市街鉄道を妨害する一方で、宮城前に集まって君が代を合唱する。愛国的ではあっても、市民とは言えない。こういった民衆の力の持つ負の側面は、民本主義のイデオロギィを形成する上で少なからず屈折した影響を与えたのではないだろうか。
結局、民本主義とは貴族的民衆政治を志向する考え方であると言える。実際に政治を担当するのは少数の高度な教養をもった指導者であり、民衆は政治の監視者としてのみ働くことになる。そしてまた、民衆は政治家によって教育され、政治家は民衆の監視によって鍛錬されることを理想とした。
穂積八束は政党を「党議を以て自由の行動を束縛し、不自然の多数を作意」するものであるとして批判を加えたが、この時機の民本主義にはそのような明治以来の政党政治の弊害を克復しようという教化主義的な側面が存在したのである。