大原・三千院

「京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり」(『女ひとり』)で有名な大原に行ってきた。歌はこの後「京都 栂尾 高山寺」「京都 嵐山 大覚寺」と続くわけだが、それだけ歩き回れば恋をしてなくても疲れるだろう。

大原の地名は天徳元年(957)に牛馬を飼育する「大原牧」として初めて史料に登場するが、それ以前の天安元年(857)には既に関所が設けられ、近江や若狭へと抜ける交通の要所として知られていた。また、比叡山の北西に位置していることにより、古くから延暦寺の強い影響下にあったとみられている。平安時代の中ごろからは、比叡山の俗化に不満をもった僧侶によってこの地に小庵が築かれるようになった。寂源は11世紀の中ごろに勝林院を、良忍は来迎院を、12世紀には真如房尼によって往生極楽院が建立されている。
また、大原は中央の政変に破れた公卿や武士が身を隠すための場でもあった。もっとも有名なのは『平家物語』のクライマックス、大原の寂光寺で余生を過ごす建礼門院の元を後白河法皇が訪れる「大原御幸」だろう。他にも文徳天皇の皇子・惟喬親王が大原に隠棲しているのだが、これについては興味深い後日談がある。
慶応四年、つまり戊辰戦争の最中に大原の郷士が新政府の役所に対して以下のような文書を提出している。

「城州愛宕郡大原政所家郷士、私共儀先祖は、惟喬親王様臣家に御奉公仕居候節、政所号被下置御役相勤罷在、親王薨去後御像・御位牌・御廟等守護仕、且大原郷中取締役相勤、于今大原政所郷士と相唱、誠厚蒙御恩、冥加至極難有奉存候。(中略)此度御一新之折柄ニ付、不調法之我々ニ候得共身分相応之御用等、被為仰付候ハバ、難有仕合ニ奉頼候」
  ―津吉家文書 弁事御役所宛 慶応四年四月三日― 

彼らの言うところによると、自分たちの先祖は惟喬親王の家臣の家に仕えていたもので、親王が亡くなった後は親王の木像や位牌、廟所を守って生活してきたのだという。その後だんだん生活は苦しくなってきたが、今度御一新が起こって直接天皇が政治を取る世の中になった。そこで代々天皇家に忠義を尽くしてきた我々にも、それに応じた役目を申し付けてください、とのことである。
彼らが全員維新政府に参加できたのかはわからないが、明治二年には兵部省に勤める大原郷士から、採用人数の拡大を求める文書が提出されていることを考慮すると、どうも一部の採用に留まったようだ。しかし、ほとんど農民と同じ生活を送りながらも「天皇家の家臣」としての意識を持ち続け、明治維新に際して権利の回復を試みた彼らのような人々は、おそらくかなりの数で存在したのではないか。例えば大原の北西に位置する丹波国山国庄は江戸時代を通じて禁裏御料であったことから、幕末には義勇兵が組織され、「山国勤皇隊」として会津まで従軍している。

三千院は天台三門跡のひとつ。鎌倉時代に近江坂本から京都市内へ移り、応仁の乱のあと船岡山から現在の場所へと落ち着いた。本堂の往生極楽院は鎌倉時代の建築で、三千院とはもともと別寺院の建物であったと考えられる。
庭園は金森宋和による作庭と伝えられるが、文献史料が無いためはっきりしたことはわからない。作庭家・重森三玲は、往生極楽院側の庭園は様式において寛永年間に作られた園城寺円満院と近似していることから、それを模して作られたのではないかとしている。
宸殿側の庭園に関しては石組が植栽で多い尽くされており、当初の作庭意図は全く隠されてしまっている。花や草で賑やかにすれば良いというものではないのだが、いまどき古庭園の石組の良さがわかる人も少ないだろうし、仕方の無いことなのだろうか。