明治国家と平安文化

京都在住4年目にして初めて時代祭に参加した。バイトとしてではあるが、比較的じっくりと見られたので、覚え書き程度に時代祭の歴史的位置づけについて書いておこう。一応まじめに働いていたので、写真は無し。
時代祭というのはそもそも、明治二十八年に行われた平安遷都千百年紀年祭の一環として行われたイベントであり、翌年からは同じく二十八年に創建された平安神宮の例祭として現在に至るまで続けられている。平安神宮の創建については、明治六年に京都市民が府知事宛に「東京遷都はやむをえないにしてもせめて御所の荒廃を改めて、桓武天皇以来孝明天皇までの歴代天皇を御所内に祭り、市民が参拝できる場所にすべきではないか」という願書が提出されたことをそもそものきっかけとしている。
平安遷都千百年紀年祭、そして平安神宮の創建。このふたつは東京遷都によって落ち込んだ京都経済を盛り上げるための地域振興策であると同時に、協賛会には政府の要人が多数名前を連ね、寄付金の大半は京都府外から集められるなど、政府からの強力な支援を受けた全国的行事でもあった。ではなぜこの時期に、政府は「平安京」としての京都のイメージを植えつけるような行事を行う必要があったのか。まずは明治初年から文化行政の流れを追っていくことにしよう。


明治政府の文化政策における初期の目的は基本的に、天皇を京都ローカルな存在から全国的な存在に変えること、すなわち天皇を京都における宗教的なものを中心とした在地権力から引き離すことにあった。これらは主に、賀茂社や岩清水八幡宮の神楽・走馬・東遊の廃止などに見ることができるだろう。しかしこうした政策は、明治十年における天皇の京都・奈良行幸をきっかけとして、天皇を中心とした「伝統」を前面に押し立て国民の統一を図る方向へと大きく転換することになる。この背景には、在露公使柳原前光の建言−独自の伝統を持っていなければ世界の一等国ではない−に代表される、「旧慣」保存を求める声の高まりがあったと考えられている。
近代国家が国民統一の手段として伝統を利用したことは良く知られているが、岩倉具視の「京都皇宮保存に関する意見書」で強調されているように、その伝統を最も分かりやすい形で提示することができるのが文化財であった。しかし日本の場合、ヨーロッパにおける近代国家のように前近代の王朝から膨大な文化財を引き継いだわけではなく、また、正倉院法隆寺の皇室にゆかりのある宝物なども明治政府成立時には皇室のものとなってはいなかった。このことが後述する平安神宮の創建とも関って、歴史の象徴としての文化財が人為的に創出されることの原因となるのである。
明治二十六年に創設された平安遷都千百年紀年祭協賛会の役員には、総裁に有栖川宮熾仁親王、会長に近衛篤麿、副会長に佐野常民が選ばれている。また幹事は東京・京都で6人、会務を評定する評議員が東京55人、京都51人、大阪23人、その他14人、支部長は府県知事全員であり、予算面から見ても寄付金が全体の77%を占め、半分近くが東京・京都以外の都市によるものであった。 以上のことから紀年祭が全国規模で行われていたとわかる。
明治二十七年に協賛会は平安神宮の創立を出願し、翌二十八年に鎮座式を挙げている。近衛篤麿は「平安神社創立ノ儀二付願」を議会に提出し、平安神宮創建に中心的な役割を果たした人物であるが 、なぜ近衛篤麿という高級貴族がこのイベントに関わっているのか、という疑問を中心として平安神宮を巡る動きを論じていくことにしよう。


紀念祭実行委員の一人である雨森菊太郎は近衛の師匠の一人・岩垣月州の次男であるが、このとき雨森は京都市会議長でもあった。また近衛は明治二十九年「古社寺保存会組織二関スル建議案」を貴族院に提出した人でもある。一月三十日の説明で近衛は

「本建議案は両三年前京都府知事の中井弘氏と協議の末、両人提出者と為りまして議場に持出す積もりで居りました、然るに其際丁度此の戦争の始まりました頃でありますので暫く見合わせて居りました、其中不幸にして同氏は逝去せられました、私は其遺志を継いで尚ほ建議を致す考えでありました」

と述べているが、この説明を見ても分かるように、近衛と京都府とは深い関係を持ち、また古社寺保存に関心を持っていたために近衛は協賛会の役員になったとも考えられる。近衛は「欧州諸国、動もすれば東方諸国を軽侮し、往々無体の挙に出づと雖も、然もわが帝国及支那に対し、衷心多少の敬意を持する所以のものは、建国極めて古くして、貴重なる古代建築物及美術品に饒むを以ってなり」 という風に、ナショナリズムの観点から文化財保護を訴えている。つまり京都復興策として紀年祭を行いたい京都府側と近衛などナショナリズム高揚のために紀年祭を行いたいという思惑が一致したことによって紀念祭は全国規模になったといえる。
では、なぜ平安神宮という「新しい文化財」を作る必要があったのか。それは即位式大嘗祭などの年中行事が持つ平安文化のイメージに合わせてそれを顕彰する文化財が必要であったのに対し、京都市内にはほとんど平安時代文化財がなかったためである。明治二十五年に桓武天皇の事蹟調査のため来京した田口卯吉は、「私は、この記念すべき御遷都一千百年に、京都の市民諸君が、是非何か最も適当なことを計画して、桓武天皇のご遺徳を称え、帝の御鴻業を後代の市民に、いつまでも澹仰せしめるようにしたいものだと、切望しているのだが……」と述べている。これは当時としては実質的に初代の天皇であった桓武天皇を顕彰する文化財がなかったことをあらわしており、桓武天皇の顕彰とナショナリズムを結び付けたい政府としてもそのための施設を作ることは急務であったと言える。
この場合に注意しなければならないのは、平安神宮や千百年紀年祭によって示される平安文化のイメージが、明治二十八年という時代性によって規定された「作られた平安文化」であるということである。実際、平安神宮大極殿を模して造られているが、それは平安時代に忠実であるというよりも、平安時代のイメージに対して忠実であったというべきだろう。庭園に関しても平安風の池泉廻遊式のつもりでつくられているが、実際は明治の邸宅庭園そのものである。
時代祭の行列に視点を移すと、近年まで室町時代の行列は存在せず、吉野時代として扱われていた。これは明治国家の歴史観として非常にわかりやすい例であるが、そもそも明治維新行列から始まって律令国家、神代(桓武孝明天皇)へと遡っていく構成そのものが「現代の全国民に直結する体系的な歴史観」を示したものである、と言えるのではないだろうか。例えば鎌倉幕府が成立したのことの意義は、関東と、近畿と、九州とでは全く異なるものであっただろう。その差異を無視し、全国民が同じ歴史像を共有することによって近代国家は成立するのである。