最近噂になっている懸賞論文を読んだ。満州事変はどこいった。
昔、戦前の陸軍士官学校では幼年学校から陸大まで一度も政治に関する講義がなかったという話を聞いて、なるほどなーと納得したことを思い出した。現代はどうなのか、知らない。
あと、ユルゲン・ハーバーマスの「一種の代替補償」を読み返した。最後の部分だけ引用する。

今日「歴史の喪失」として嘆かれている状況は、実際は、単に歴史の隠蔽や排除を意味するものではないし、また、罪を背負わされ、それゆえに過ぎ去ろうとせず立ち往生している特定の過去にこだわりすぎているというのでもない。もし、若い人々の間で国民的シンボルが、その影響力を失ってしまったとするのなら、もし、断絶性がより強く感得され、何が何でも連続性を賛美しようとすることがなくなるのなら、もし、国民的自負や集団的自尊心が、普遍主義的な価値思考のフィルターを通して濾過されるのなら、これらのことが現実にあてはまる程度に応じて、ポスト伝統的なアイデンティティーが形成される兆しが増大してゆくのである。
(中略)
我々を西側から離反させない唯一の愛国主義は、憲法愛国主義である。諸々の普遍主義的な憲法原理への信念にもとづく忠誠は、ドイツ人の文化国家のなかでは、残念ながらアウシュヴィッツの後になって――そしてそれを通じて――初めて形成され得たのである。「罪への囚われ」というような決まり文句によって、このような事実に対する恥の感覚をなくしてしまおうとする者や、ドイツ人を、国民的アイデンティティーの伝統的な形態へと連れ戻そうとする者は、我々を西側へと結びつける、信頼するにたる唯一の基盤を破壊しようとしているのである。
  初出『ツァイト』紙、1986.7.11

私は憲法愛国主義ってよく知らないのだが、とりあえず歴史が開かれたものであるべきだという点に関して同意。「開かれたもの」というのはつまり、一国主義的な歴史観と、安易な現状追認から自由であるべきだということ。

過ぎ去ろうとしない過去―ナチズムとドイツ歴史家論争

過ぎ去ろうとしない過去―ナチズムとドイツ歴史家論争