高尾・神護寺

京城の西北三里許りに在り。山の形、鷹の尾に似たり。故に或いは鷹尾山と称す。紅楓の名区也。
  黒川道祐『雍州府志』(1686.9)


神護寺の大師堂(弘法大師を祀るお堂)の内部が初めて一般公開されたと聞き、天気も良かったので、自転車に乗って行ってきた。
京都の御室から丹波の周山へと至る一条街道(周山街道)をひたすら登っていくと、途中に寺院の密集した地域があり、そこから長い石段を上れば神護寺へとたどり着くことが出来る。室町時代から紅葉の名所として知られており、この時期はそれを目当てにやってくる人々でバスが混雑する。そんなわけで自転車を使ったわけだが、所要時間はふもとの仁和寺から50分といったところ。思っていたよりも近く、道路も広くて楽に登ることが出来た。

高尾を含む京都北西部の山間地帯は、古くから狩猟や木樵に従事する人々の生活の場であった。彼らは朝廷に得物を献上することで自らを供御人と称し、様々な特権を獲得していたのである。神護寺高山寺の創建により境内が切り開かれたことで彼らの生活圏は脅かされ、両者は相争うこととなった。それを鎮めるため、寛喜二年(1230)には太政官符が出され、神護寺高山寺の境界に牓示(ぼうじ。領地の境界を示す木の杭や石柱)が打たれている。

太政官牒す高尾山神護寺/まさに官吏を遣わして巡検を加え、旧跡を糺し、且つうは堺四至に牓示を打ち、且つうは樵採漁猟を禁遏すべき当寺領の事。

この後、供御人の中には神護寺高山寺の下部(雑用)として門前に住みながら、その一方で材木業などの商業活動を続けるものが現れるようになった。こうして16世紀までには門前町としての梅ヶ畑四ヶ郷が成立し、梅ヶ畑供御人として五月の菖蒲・薪などを宮中に奉仕することで公事諸役を免除されるに至ったのである。

神護寺の創建には和気清麻呂が関っているというが、詳しいことはわからない。もともとは高雄山寺といって、最澄はここで法華経の講義を行い、また空海最澄に灌頂を授けている。その後荒廃するが、平安末期に出た文覚によって復興が進められた。彼が後白河法皇の院御所を訪れ所領の回復を直訴したことは『平家物語』にも描かれている。
今回の目的である大師堂はともかく、普段から拝観できる文化財としては本堂の薬師如来立像が一番の見所である。高雄山寺の本尊であったとも、和気清麻呂が創建した神願寺から移したものとも言われているが、平安初期の一木彫を代表する傑作であることは間違いない。鋭くエッジを利かせた衣文表現、量感と質感を兼ね備え、強い霊性を感じさせるものとなっている。

大師堂は今回初公開。入母屋造、杮葺き。お堂の正面に向かって左右に立てられた柱の数がそれぞれ異なるという異例の建築である。軒は低く、窓は蔀戸と住宅風の様式が用いられている。内部にはさらに4本の柱が立てられ、それに囲まれた厨子には板彫りの弘法大師像(1302年制作)が収められている。高知県金剛頂寺にある空海像を模刻したものと伝わるが、現在の金剛頂寺に伝わる空海像は後の時代の作品であり、手本となった像はすでに失われたと考えられる。作風においては同時代の懸仏に通じるものがあると言われるが、絵画よりも質量感のあるリアルな空海像が求められたため、このような板彫像が造られたのだろうと考えられる。