竹村民郎・鈴木貞美編『関西モダニズム再考』

関西モダニズム再考

関西モダニズム再考

東京中心史観を離れ、明治以降の関西から「近代」を問い直していこうという、比較的漠然とした問題意識を基に集められた論文集。最後の鈴木論文以外は「近代」を問うというほどの深さはなく、個別論に留まっている印象を受けた。冒頭の竹村論文「「阪神間モダニズム」の社会的基調」も郊外における田園都市の形成に実業家がどのような役割を果たしたのかを明らかとしており、それなりに興味深い内容だった。ただ、「近代」への考察としては「関西には金持ちが利益を社会に還元する伝統がある」と言っているだけで、浅い。近代京都論の「琵琶湖疏水のモダニティ」(金子務)や「梶井基次郎檸檬」に見る大正末・モダン京都」(中河督裕)なんかは自分の専門と近いため興味深く読めたが、これらも従来の通史を書き換えるようなものではなかった。第一、テーマ選択の必然性がよくわからない。「たまたま」京都を題材にしただけのように思える。
やはり、最後の鈴木論文「モダニズムと伝等、もしくは「近代の超克」とは何か」が頭ひとつ抜けて優れている。各分野における近代の定義から始まり、明治期における近代思想(自由・功利主義・進化論)の日本的な受容、伝統の見直し、近代美学論の変遷といった風に様々な分野を横断しながら、「近代」の見取り図の再編を促している。近代思想の受容の部分では

明治初期に西洋の哲学を受け止めた啓蒙家たちは、最初は、それを「天理」と説く「理学」と訳した。朱子学にいう「天理」が自然の法則性と人間の営みの原理とを、ともに含むものだったからである。そのことが自然科学的法則性と社会規範の原理とを未分化のままにし、乗り移ったり、ご都合主義的にとりかえたり、あるいは融合させたりすることを容易にした。明治中期にあっては、宇宙の法則から社会の法則までのすべてを最適者生存の進化論で説くスペンサー哲学の受容がそれを裏打ちした。

というのはたぶん一般的な理解なんだろうけど、あまり知らない分野なので勉強になった。要するに前近代の思想がバイアスとなり、いかに西洋思想が日本的なものへと換骨奪胎されたかを重視する議論である。あと、20世紀初頭における自然主義の没落と象徴主義の勃興の中で『新古今和歌集』の再評価が進められ、その特徴が「幽玄」でまとめられたことについて

明治期に「幽玄」の語は、ほぼ現象の背後の神秘(mystery)の訳語として用いられていた。それゆえ、「幽玄」の形象を象徴(シンボル)と呼べば、それで象徴芸術の理念は成立するからである。

重森三玲の著作を読むと頻繁に幽玄という言葉が出てくるのにはそのような背景があったのか、と納得した。