近世在地社会における教養について

徳川吉宗が設置した目安箱について、室鳩巣がこんなことを書いている。「百姓名主の子に学問これ有る者」の投書が、「漢文にて調い候て、御勘定頭などよめかね」「御奉行以下読み得申す者これ無く」、つまり学問のある百姓の出した投書が見事な漢文で書かれていたため、仮名交じり文に慣れていた奉行にはさっぱりよめなかった、と。
幕府の通常の意思決定プロセスにおいては、老中が担当奉行あるいは奥右筆に下問を下し、彼らは先例を調査して報告する。そして老中が合議の上結論を出す。このような「先例重視」の政治システムであるがゆえに、社会構造が変化するに従って、幕府は外に人材を求めざるを得なくなってきた。蝦夷地開発において非武士身分だった最上徳内を普請奉行に取り立てたり、有名なところでは後の大村益次郎を雇っていたことからもわかるように、幕府は民間の人材をかなり柔軟に登用している。ではなぜこのように高度な教養を持った人々が、非武士身分の中に多く存在したのだろうか。
一般的には寺子屋のような教育機関の充実が挙げられるところだろうが、在地社会において教養を蓄積した人々というのは、その多くが中世領主の末裔にあたる土豪であった。領主クラスが教養を持っているのは当然であり、問題は、中世から近世に移行する際に彼らが武士階級の中に取り込まれなかったことにある。いくつか原因は考えられるが、中国や朝鮮の科挙に相当する制度が存在しなかったことが、もっとも重要ではないかと思う。と同時に、科挙が存在しなかったことで「知」が制度化されず、広がりを持つことにもなった。近世の名主層はこういった「知」を武器にして村の秩序を保とうとした。神罰や祟りといった超自然の力から、朱子学陽明学へと、家訓や村掟を補強するための理論武装は変化していく。それが体制と調和する範囲で用いられている間は良いとして、別の方向に振り向けられたとき、強い民衆運動を起こす可能性がある。そのときが民衆史としての近世と近代の分岐点だったと言えるのではないだろうか。
在地における教養の基盤は以上のとおりとして、では、村の名主層がどのようにしてその教養を高めていったのか。どうも18世紀の中ごろには貸本屋があって、村々を巡回していたらしい。当然三都では出版物が盛んに販売されていたので、名主ならば蔵屋敷に行くついでにそれを手にすることができた。遠隔地に住んでいても、城下町には三都の出版物が流入してくる。さらには自作した俳句を三都に住む師匠に送って採点してもらう制度が存在していたように、知のネットワークは全国に張り巡らされていた。そういった知のインフラ整備が、全国的な尊攘運動、そして国民国家の形成を可能にしたのではないか……と思う。
上手く表現できないが、近世における民衆の高い教養については、相反する側面があると思う。ひとつは村請制という村落自治の容認それ自体が指導者層に一定の教養があることを前提にしているように、幕府支配を強化する力を持っていること。吉宗は自ら医学書や六諭の注釈書を出しているが、それは民衆の教養が支配者にとっても必要であることを認めている、と言える。もうひとつの側面は、反体制の推進力としても民衆の教養が機能していること。どこでそのスイッチが切り替わったのか、ということが問題である。
やはり吉宗のころがひとつの転換点と言えるのか。吉宗が自ら出版に手を出しているというのは、教養の中の最高の部分を体制側が依然握っているということであるが、先述した蝦夷地の開発にも見られるように、それは民衆の側へと移っていく。それがきっかけとなったのではないか。


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