ナショナリズムとパトリオティズム

ナショナリズムパトリオティズムは別物であると、ナショナリズムを扱った大抵の本には書いてある。しかし、いよいよナショナリズムが高揚しようというときには、このふたつが結びつくことが多い。なんで?と昔から疑問に思っているのだが、誰も答えてくれないので、とりあえず自分なりの答えとして、以下のような筋書きを考えた。
ナショナリズムが勃興していく中で、パトリオティズムは国家によって解体されていく。「偏狭な郷土感情」というレッテルを貼って。しかし、近代国家が国民の定住性を前提として税を徴収するシステムを構築していく以上、その定住性を強化するために郷土意識の醸成もやはり必要となる。そんなわけでナショナリズムの高揚に反比例してパトリオティズムが衰えていくことにブレーキをかけるため、「郷土愛を持とう」キャンペーンが始まる。しかし、それによって今度はナショナリズムが衰える、ということがあってはいけない。
そこで国家は、パトリオティズムに対して新しい意味を与える。それは「郷土とは小さな国家である」ということであり、郷土に尽すことは国家に尽すこととイコールである、という考え方である。そうしてナショナリズムパトリオティズムは無矛盾なものとして受けいれることが可能になるのではないだろうか。
ただ、そうしてナショナリズムに取り込まれた「ナショナリズムに良く似たパトリオティズム」が、逆にナショナリズムへと影響を与えるようになる、ということも考えられるだろう。そもそもパトリオティズムというのは身体感覚と密接な関係を持ち、中心ー周縁の関係が自らの身体からの距離によって規定される。自分から遠ざかるほど「見知らぬ人が住む世界」になってしまうわけだが、ナショナリズムはそうではなく、距離に関らず同じ国内であれば「同じ国民」という感覚を持つことができる。
その両者が混ざった状態、というのは中々表現しづらいのだが、日本の帝国主義がたどった道を考えれば、そういう状態があったと言えるのではないだろうか。日本から離れた植民地を「同化しつつ排除する」。例えば朝鮮における創氏改名で、日本人と同じように姓を持つことを強制しつつ、一方で日本人と見分けがつかない姓名を持つことは禁止したように。