日本庭園通史

以前サークルの新入生に向けて書いた文章がまだパソコンに残っていた。せっかくなので転載してみようと思う。需要はないだろうが、学部生の頃に書いた文章の中では比較的よく書けているもののひとつである。と自画自賛

この項では日本庭園の歴史を上古から近代まで通して解説する。従来の通説として「日本庭園は平安時代後期にほぼ完成し、後はその時代ごとの文化が付け加えられた」というものが存在するのだが、この通説に対して時には逆らいながら筆者なりの庭園史を描いていきたいと思う。


1.上古
日本庭園の歴史をどこまで遡ることが出来るのか、ということについてはっきりしたことはわかっていない。ただ、日本庭園の本質を「石」の使い方と見る立場の人々にとって、石そのものを神格化した「磐座・磐境」、あるいは死者を弔うために石を円上に並べた「環状列石」が日本庭園のルーツとして見なされている。早い時期から見られる「磐座」はただ巨石を置いただけのものだが、時代が下るにつれて石を加工したり石の周辺を飾り立てたりした「磐境」が多くなっていく。このような宗教的空間の創出を通して日本庭園の原型が作られたのだ、というのが日本庭園成立に関する一般的な見解である。磐座・磐境の代表例としては兵庫県の石像寺にある磐座、環状列石では秋田県の「大湯環状列石」が非常に有名。
特に環状列石は東北・北海道に多く分布している。
磐座・磐境、環状列石と共に「神池・神島」もまた日本庭園のルーツとして挙げられるだろう。これは池の中にいくつかの島を作り、島それ自体を信仰の対象とするものである。代表例としては岡山県吉備津彦神社が挙げられる。


2.古代
推古二十年に、百済からやってきた「路子工」が皇居の南庭に須弥山の形を構え、「呉橋」という中国風の木橋をかけたという記録が残っている(日本書紀)。また、『懐風藻』の中に収められている藤原総前(681〜737)の歌では御苑を「南浦・東浜」と詠んでおり、南側の浦が湾曲し、東側には小石が敷き詰められた本格的な庭園が造られていたとわかる。
近年においては発掘調査によっていくつかの古代庭園が復元され、その実態が明らかになりつつある。復元された庭園の代表例として「平城京東院庭園」、そして「平城京三条二坊六坪庭園」が挙げられるだろう。
この時期の庭園について考える際、まず庭園が宗教的な空間であったということを念頭に置いておくべきである。例えば、長岡京に存在したと見られている「南園」の前身は早良親王の屋敷であった可能性が高く、死後に怨霊化した早良親王の魂を鎮めるために屋敷を庭園に改修したと考えられている。また、中国から伝来し古代から平安時代にかけて庭園において盛んに行われた「曲水の宴」の存在が書かれている史料の中には「禊飲」と、曲水の宴が「禊」の意味をもった行事だと記したものがあることも注目に値する。


3.平安時代
平安時代中期から寝殿造り庭園が、後期から浄土式庭園が造られ始めた。詳細については別項に譲るが、ここではそれらの庭園が造られた時代背景に触れておく。
この時代の庭園の貴重な遺構として二条城のそばにある「神泉苑」が挙げられるだろう。
神泉苑の利用形態は、恒例儀式(年中行事)と臨時の行幸(曲園)の2種類に区分できる。しかし、古代までの似たような庭園と比べると、その内容は実に多彩である。
例としては、雨乞いなど不定期に行われた宗教儀式、そして3月3日の節会など定期的に行われる行事、曲水の宴など娯楽と宗教の入り混じった行事、相撲の観戦、七夕の詩宴などが神泉苑で行われた。こうした儀式や行事は頻繁に実施され、相撲の観戦など年中行事化されるものも現れたのだが、平安初期の天皇にとってこれらの行事や儀式は、一般貴族との君臣関係を確認し、次代を担う官人を見出すための場という政治的な目的が存在したということは押さえておきたい。寝殿造り庭園とは、第一に政治の場であった。
一般貴族の邸宅においても「神泉苑」と同じく、池を中心とした寝殿造り庭園が盛んに造られた。それを可能にしたのが地下水に恵まれた京都という土地の性質である。また、北から南へ向けて緩やかな下り坂となっていることによって、屋敷内の高低差を利用して庭園の中に滝を造ることが出来たのである。
しかし、平安時代も末期に近づくと、長年に渡る戦乱や度重なる火災、あるいは過度の開発によって水が枯れ始め、貴族たちは庭園を郊外へと移し始める。室町時代に造られたと言われている「西芳寺」なども、平安末期に造られた貴族の別荘を改修したものである。
この当時の邸宅庭園として完全なものはひとつも残っていない。しかし、ほぼ同じ様式の、寺院に造られた浄土式庭園がいくつか現存しており、そこから当時の庭園の姿をうかがい知ることが出来る。代表的なものとしては「平等院鳳凰堂」「浄瑠璃寺」「毛越寺」「観自在王院」「無量光院」「白水阿弥陀堂園地」などがある。特に「毛越寺」は平安時代の石組がよく保存されているという点で、大変貴重なものである。


4.中世
鎌倉時代に入ったといっても京都が廃れたわけではなく、京都と鎌倉の二元的な政治が行われていたという方が正しい。これは文化においても同じことが言えるだろう。
京都においては平安時代から引き続き公家による寝殿造り庭園が郊外に造られていた。例えば、亀山天皇は庭園を愛好し各地に山荘を造ったと言われているが、南禅寺塔頭南禅院はその跡地に建てられたものであり、石組などにその名残が見られるという。
吾妻鏡』などの史料によると、鎌倉時代の中ごろから公家だけでなく、武家も本格的な庭園を造り始めたようだ。しかし、現存するものがないため詳しいことはよくわかっていない。武家の庭園が重視されるようになるのは鎌倉末期から室町時代にかけてである。
室町時代に入ると、公家と武家両方の庭園に大きな変化が見られるようになるのだが、その原因は大きく「庭園の役割の変化」と「禅宗の流行」の2つに分けられるだろう。
まず「庭園の役割の変化」だが、室町時代以前の庭園には「儀式の場」としての役割があり、儀式を行うための広いスペースが庭園には必要とされていた。しかし、その役割が後退することで、池や石組が建物に近づき、より鑑賞本位の庭園が造られるようになった。
また、書院造の普及によって庭園には「客間から見て美しい」ことが求められるようになった。これは、周囲を廻遊することを前提としていた従来の庭園と比較すると重大な変化である。「庭園の平面化」と言えるかもしれない。
もうひとつ「禅宗の流行」だが、まず夢窓疎石がその後の庭園に与えた影響の大きさに触れておきたい。
彼が携わった「西芳寺や「天龍寺」が「銀閣寺」などにおいて模倣されていることからも、いかに多くの人が夢窓流の作庭を参考にしたかがわかるだろう。ただ、近年「西芳寺」が平安末期に作られた貴族の別荘を元に造られていることが明らかになり、夢窓疎石の影響を従来よりも低く修正しようとする動きもあることは付け加えておく。
禅宗の庭といえば枯山水だが、これには戦乱・地下水の枯渇・敷地の不足などによって、寝殿造り庭園のように池を中心とした庭が造れなくなったという事情も関係している。詳細については別項に譲る。
さて、以上のような動きは平安以前なら京都に限定されていたのだが、この時代からは地方都市においても庭園が積極的に造られ始める。室町幕府の大名たちが京都に滞在するうちに庭園を愛好し始め、地元にも庭園を造り出すことで庭園文化は広まっていったのである。


5.近世前期
ここでいう「近世前期」とは桃山時代から江戸時代初期までを指す。全般的な特徴としては、ソテツなど珍しい植栽や巨石などを多用した非常に豪華な庭園が多いということが挙げられるだろう。この時期における庭園とは単に鑑賞するだけのものではなく、主君が家臣に対して権力を誇示するための場でもあったため、大名たちは競って豪華な庭園を造ったのである。
また、キリスト教を通した西洋技法の導入がこの時期の庭園に影響を与えたとする論者もいる。「京都御所」や「桂離宮」に見られる直線的な地割り、黄金比に基づいた地割り、またはソテツなど外来品種の流行がそれである。例として皇室の庭を2つ挙げたが、桂離宮を造営した八条宮智仁親王のサロンにキリスト教関係者が出入りするなど、皇室とキリスト教にも確かな接点があったようだ。
さて、この時期から本格的に造られ始めた庭園として、大名庭園と露地が挙げられる。まず大名庭園であるが、大名庭園は観賞用の空間あるいは宗教儀式の場という中世以前の目的とは異なり、将軍や家臣をもてなすための「社交」の場として造られた。そのため大名庭園にはさまざまな趣向が凝らされ、時には庭園の仲に武術場や馬術場が造られたこともあり、一種のテーマパークであったと言える。また、池を中心とした広大な空間を回遊するという大名庭園の形式は、「立石を中心とした庭園の立体化」という副産物をもたらしたように思われる。これは「二条城二ノ丸庭園」において特に顕著であるが、従来の座視鑑賞式庭園のように視点が固定されているものとは異なり「どこから見ても楽しめる」ことが要求される大名庭園においては立体的な構成が必要とされたためではないだろうか。
次に露地。武家や豪商にとって茶道とはコミュニケーションのために必須なものであり、そのため大きな屋敷には必ずと言ってよいほど茶室と露地が造られた。ただ、詳細は別項に譲るが、露地のあり方が時代によって微妙に変化していることは強調しておく。武家や禅僧などが主に利用していた初期の薄暗い露地から、町民や公家など広範な人々が利用するようになった後期の明るい露地とでは明らかな違いが見られる。
この時期の代表的な庭園としては、先述した「桂離宮」「修学院離宮」「西本願寺虎渓の庭」「醍醐寺三宝院」「二条城二ノ丸庭園」露地では小堀遠州作庭の「大徳寺孤篷庵」が挙げられるだろう。



6.近世中後期
この時代の庭園文化に関しては多くの専門書においてネガティブな評価がなされている。しかし、町民層の経済的発展に伴って庭園文化がより多くの人々に共有されることになったことには注目するべきだろう。
近世中後期の特徴は4つある。まず1つ目が、印刷技術の発達による出版ブームである。近世以前から『作庭記』などの作庭書が庭園造りにおいてバイブル的な地位を保持していたのだが、『作庭記』は本来秘伝書であり、一般人が見ることの出来るようなものではなかった。それが近世中期以降になると『築山庭造伝』など従来の作庭書の内容を整理したものと共に改めて出版され、庭園文化の普及に大きな役割を果たしたと見られている。
2つ目が、前記の出版ブームとも関連するが、有名庭園が観光地として一般化したことである。この時期には『都林泉名所図会』に代表される名所本(観光ガイド本のようなもの)が多く出版され、あらためて「竜安寺」など寺院の庭が観光地として注目されると共に、入場料を取って一般公開する個人庭園も現れた。
3つ目が、庭園に使われる園芸品種の大幅な増加である。外国との交易を通してもたらされた新しい品種が、街道の整備によって大都市圏から各地へと運ばれたと考えられている。ちなみに、江戸の園芸ブームを時期別に区分して、俗に「寛永のツバキ」「元禄のツツジ」「正徳のキク」「享保のカエデ」「寛政のカラタチバナ」「文化・文政のアサガオ」「天宝のオモト・ナデシコ」「嘉永安政の変化アサガオ」と言われている。
4つ目が、坪庭の流行である。坪庭の起源は平安時代まで遡ることが出来るが、現存しているものの多くが近世中後期に造られたものである。京都などの都市では町屋と呼ばれる住宅地が非常に密集していたため、広い庭園を造るのが困難であった。しかし、一般に「鰻の寝床」と呼ばれるように奥行きは広く、光や風を取り入れるためのスペースが設けられた。庶民はそうした場所に坪庭を造ったのである。
この時代の代表的な庭園としては、近世初期の流れを引き継きつつも繊細で植栽がメインとなる「兼六園」「偕楽園」などの大名庭園、坪庭では「妙心寺東海庵」が有名である。その他多くの個人庭園が現在も残っているが、一般公開しているものはそれほど多くはない。


7.近現代
明治維新を経て洋風建築が日本にも根付き始めると、日本庭園もまた変質を迫られることになった。西洋における「風景式庭園」の導入である。
従来の日本庭園においては、仏教的、あるいは道教的理想郷を庭園の中に再現するということに重点が置かれていた。そこに風景式庭園の要素が導入されることにより、緩やかな小川や丸みを帯びた石などを配した、穏やかな庭園が軍人や実業家の邸宅に多く造られることとなったのである。その代表例として小川冶兵衛作庭の「無隣庵」が挙げられるだろう。ただ、上述した風景式庭園の特徴を満たしつつも、東山を借景とし、「醍醐寺三宝院」にも見られる三段の滝を取り入れるなど、「日本庭園らしさ」を意識したものになっていることは強調しておきたい。この時期から花の多い庭園が増え始めるのだが、それも近世中後期における園芸品種の大幅な増加を引きついだものであると言えるだろう。
さて、戦後に入ると、重森三玲という人物を中心とした2つの動きが現れた。ひとつはダダイズムなど前衛芸術の影響を受けた庭園の出現である。「東福寺方丈庭園」や「松尾大社の庭園」がその代表作に挙げられるだろうが、当時から現在まで、その価値については賛否両論分かれている。これらの庭園は自覚的に三尊石組や磐座・磐境を庭園のモチーフとして取り込むなど、新しさと共に復古的な要素も持っていた。
もうひとつの動きとは、現在まで続く庭園の復元・保護活動である。平城京の復元をはじめ、「法金剛院青女の滝」なども戦後になって復元されたものだ。また、重森三玲によって全国の庭園500箇所の実測調査が行われ、その成果は『日本庭園史大系』全35巻にまとめられ基礎資料として重宝されている。


最後に、現在進行形の日本庭園に触れておく。現在では日本庭園がホテルにも造られるほど、ありふれたものとなっている。しかし、ここで気になるのは、日本庭園が本来持っていた思想性が現在は骨抜きにされているのではないか、ということである。また、昔のように個人邸宅に広大な庭を造ることが難しくなった現在では、庭園造りの主体が個人から企業などに移行するという現象も起きている。そんな中で現代の庭園には、その機能とは、役割とは何かということが改めて問われているのである。
参考文献
重森三玲・重森完途『日本庭園史大系17』社会思想社 1971
飛田範夫『日本庭園の植栽史』京都大学学術出版社 2002
森蘊『日本史小百科 庭園』近藤出版社 1984
吉野秋二神泉苑の誕生」『史林 88巻』史学研究会 2005