『坑夫』

夏目漱石の『坑夫』を読んだ。映像化不可能、というコピーが浮かんだ。ルポタージュ的な構成をとりながら、まったくそれらしくない饒舌さがなんとも漱石らしい。
新潮文庫版で270ページ。炭坑にたどり着くまでに100ページ、そのあと50ページくらいは飯場の人々にからかわれ、坑夫として働き出すのは最後の100ページだけ。途中で「こんな単純な話が小説になるものか」と地の文に書かれるのだけど、その単純な話で150ページ引っ張るほうが凄い。
『坑夫』はとにかく主人公の心理描写に圧倒されてしまうのだけど、それを描写しているのは未来の主人公で、つまり主人公自身による回想という形式をとっている。思い出したようにそのことが強調されるのだけど、ただ、印象としては主人公の素直な感情を描いているな、と。特に後半50ページは事実の描写とそれに対する直接的な反応が主で、「回想」という建前はあまり意味を為さなくなっている。一般的な小説においても、その時点では知りえないことが地の文に書かれることは普通に行われているわけで、ことさらに「回想である」と強調するのは、話しかけられ、ただ相槌を打つ間にも膨大な心理描写が挟まれることに対する理由付け、あるいは照れ隠しではないかと思った。
あとは印象的な風景描写にも触れておきたい。

さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりも余っ程長いもんだ。何時まで行っても松ばかり生えていて一向要領を得ない。

という文章で『坑夫』は始まるのだけど、坑夫という社会的なテーマを扱いながらルポタージュ的な印象をほとんど受けないのは、この執拗な風景描写に負うところが大きいと思う。風景によって何かを語らせる、という手法は全く小説的なやり方で、歴史学でそれをやろうと思えば司馬遼太郎のように「ところで〜という地名は『風土記』にも書かれており」とやるしかないわけだが、少し野暮ったいかな。