『太平洋戦争と新聞』−新聞の変容

太平洋戦争と新聞 (講談社学術文庫)

太平洋戦争と新聞 (講談社学術文庫)

ちょっと出来事を調べる分には便利だし、軍民離間問題の話はなかなか興味深いかった。ただ、それを覗くと新しい着眼点や主張はほとんど見られない上に(89年に出版されたものを元にしているので当然ではある)、昭和元年から終戦までという本書の時間設定も新聞の変容を捉えるには短すぎるだろう。個人的には、いくつかのきっかけを経て、大正後期までに新聞報道のあり方は決定されていたように思う。


さて、明治期に大きな影響力を持った『万朝報』や『二六新報』などの新聞は第一次護憲運動までに影響力を失い、それに代わって『東京朝日』『大阪朝日』『東京日日』『大阪毎日』『報知』『時事新報』『国民』などの新聞が発行部数を伸ばし始める。これらの新聞は大正デモクラシー期において倒閣に重要な役割を果たしたが、大正七年のいわゆる「白虹事件」をきっかけにその性質を大きく変えていくことになる。
その白虹事件についてだが、大正七年八月二十五日に開かれた関西記者大会の様子について、『大阪朝日新聞』夕刊は以下のように報じている。

「金甌無欠の誇りを持った我大日本帝国は、今や恐ろしい最後の審判の日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉の兆しが、黙々として肉叉を動かしている人々の頭に雷の様に閃く」

「白虹日を貫けり」とは内乱が起こるという意味であるため、内務省は直ちにこの夕刊を発行禁止とした上で大阪朝日を起訴、さらに黒竜会などの右翼は「日」が天子を意味していると難癖をつけ、大阪朝日社長の村山竜平を襲撃するなど攻撃を強めた。その後、大阪朝日は「本社の本領宣言」と題する宣言を掲載、「不偏不党公平穏健の八字を以て信条と為し」と編集方針を変更することになった。


また、本書で主に槍玉に挙げられているのは「朝日」と「毎日」の二紙であるが、そもそも関西系の新聞であるこの二紙が関東大震災以降、全国紙として『報知』『時事』など東京系の新聞を圧倒したということ、それ自体がその後のジャーナリズムの流れを決定付けたと言える。
つまり従来の、政治的立場をはっきりとさせ、論説中心で教養のある読者層に訴えかけてきた名物新聞が敗れ、編集面では「不偏不党公平穏健」な報道を掲げる大資本の新聞が競争に打ち勝ったのである。早い、簡単、分かりやすい――といった紙面が好まれるようになった。『時事新報』や『報知』、『国民』といった東京系の新聞が次々と没落していく中で『読売新聞』が三大新聞のひとつに成長した理由も、この流れに上手く乗った点にある。虎ノ門事件で引責辞職した正力松太郎を大正十三年、社長に迎えた『読売』はラジオ版の創設や自社主催のイベント、囲碁・将棋・野球版などを前面に押し立てて「面白い新聞」として伸びていった。


新聞が農村の小作層まで広がっていくのは満州事変以降のことだが、新聞にとって戦争は大きなビジネスチャンスでもあった。種となる戦争の情報を得るためには、軍部との関係を円滑に保つことが求められた。憲兵秘第658号によると、昭和六年十月十二日に開かれた大阪朝日新聞社の重役会議では「日本国民として軍部を支持し国論の統一を図るのは当然の事にして現在の軍部及軍事行動に対しては絶対非難を下さず極力これを支持すべきこと」という決議がなされている。また、この報告書によると大阪毎日のほうでも同じような決定をしたという。昭和十二年には内務省警保局から各新聞社に「時局ニ関スル記事取扱ニ関スル件」と題する通牒が送りつけられ、「軍機、軍略に関する報道はいっさいこれを禁じ、陸海軍大臣からあらかじめ許可を得たものに限り許可する」という報道管制をしかれることになるが、その先鞭をつけたのは他でもない新聞であった。
とはいえ、戦時下の大新聞に良心的な部分が全くなかったわけではない。例えば太平洋戦争開始のほぼ半年前、昭和十六年の海軍記念日には海軍省の報道課長がラジオで「海戦の精神」という挑発的な演説を行ったのだが、翌日の朝刊では多くの新聞が第一面で取り上げたのに対し、『朝日』だけはそれを無視した。海軍省に呼び出された担当記者は「海軍はかねがね米・英に対して戦争を仕掛けるつもりは全くないと言っていたはずである、しかし演説の内容は『海戦の精神』ではなく『開戦の精神』ではないか」と反論したという。
要するに、ここまで状況が差し迫った中で残された抵抗の可能性とは「いかに書かないか」ということであった。「大本営発表」以外に流せる情報がなかったとしても、恫喝的な表現を修正したり、記事の大きさを加減することは決して不可能ではなかったのである。