河鍋暁斎について−京都国立博物館「没後120年記念 絵画の冒険者 暁斎 Kyosai−近代へ架ける橋−」展によせて−


神仏分離に始まる日本社会の「近代化」において宗教に与えられた役割は、自らをキリスト教社会主義への防波堤になぞらえ、人民を天皇制国家における忠良な臣民に教育することであった。仏教は教義の合理性を強調し、国家の教化政策の側に組み入れられることで生き延びたが、一方、国家によって権威づけられない(記紀延喜式神名帳に記載されない)鬼神や妖怪といった民俗信仰は抑圧され、また否定された。同時に、近代は「美」のあり方を変質させた。法隆寺の柱はエンタシス、釈迦三尊像はアルカイック・スマイルという風に、理性が美を判定した。
しかし、社会の表舞台からは姿を消しても、長い年月をかけて培われた日本社会の土俗性、残酷で綺麗な世界は失われるものではなかった。そんな時代を代表する画家、それが今回取り上げる河鍋暁斎である。


93年、イギリスの大英博物館河鍋暁斎展が行われた。タイトルは「デーモン・オブ・ペインティング」。暁斎の雅号のひとつ「画鬼」を直訳したものであるが、没後長い間忘れられていた暁斎に対する再評価のきっかけとなった展覧会としては悪くない。なにしろ、狩野派から浮世絵、四条派、戯画、大津絵まで身につけ、しかもその全てにおいて傑作を残した悪魔的な画家である。そして何より、暁斎の描く幽霊・死体・鬼神の類は本当に怖い。
九相図 河鍋暁斎筆
ちなみに暁斎の談話をまとめた『暁斎画談』では「御茶水急流に生首を得 写生の図」と題して、当時9歳の暁斎神田川に流れ着いた生首を写生する話が紹介されている。まあ、本当かどうか怪しいけれど……。


暁斎の魅力のひとつとして、アングルとポーズの選択が挙げられる。彼は動物や子どもといった動くものを好んでモチーフにしたのだが、2本足で立ち上がった狐や正面を向いた鯉、耳の見えない兎など、ありきたりのモチーフをありきたりではない角度から描くことが多かった。
鯉魚遊泳図 河鍋暁斎筆
「画を以て専門とする者は、目に見える物品、何にまれ、彼にまれ、その形を写生なし得るを以て画をかく者とこそすれ」と暁斎自身が述べているように、対象の観察と写生が暁斎の基盤となっている。
もうひとつ、暁斎が好んで描いたモチーフに「骸骨」がある。弟子のコンドルから送られた西洋絵画の入門書の中に骨格図が掲載されていたらしく、『暁斎画談』の中にその模写が収められている。おそらくはそのためだろうが、暁斎の描く骸骨は非常に上手い。たとえば『地獄太夫と一休』。
地獄太夫と一休 河鍋暁斎筆
動きの瞬間を捉える観察力、写実性は四条派とも共通する点がある。しかし、その中のどろっとした部分、あるいはユーモアこそが暁斎の魅力であり、また長い間彼が忘れられていた理由ではないかと思う。最近はそうでもないが、昔は漫画や戯画の類を低く見る美術史家が少なくなかった。


今回京博の暁斎展を見て、改めてその視野の広さ、開明的な態度に驚かされた。画業の基本として狩野派のスタイルを守りながら、狩野芳崖や橋本雅邦のような堅苦しさ、閉鎖性が微塵も感じられない。外国ドラマのパイ投げを連想させる『墨合戦図』やひたすら怖い『幽霊図』、それと羽織の裏に書かれた『処刑場跡描絵羽織』。この作品は一方に文明開化の町並みを、他方に処刑場を題材にした無残絵を描くという変り種。昔『こち亀』のネタで「江戸っ子は羽織の裏に凝る。脱ぐときにちらっと見えるのが粋だ」という話があったが、羽織の裏から処刑場の光景が見えるなんて実に反骨的ではないか。
ただ、僕にはこの作品が、文明開化によって路地裏へと追いやられた非理性的なものを象徴しているように感じられるのである。あと、暁斎で忘れてはいけないのが春画
そういえば、今回の展覧会には春画がなかった。エロゲーマーとして黙っていられるか責任者出て来い、というのは冗談として、暁斎春画を描かせても上手い。代表作に12枚の木版画を屏風に貼り付けた『屏風一双の内』という作品があるのだが、その中には局部の拡大図をカットインで画面内に挿入したものがあって、こんなエロゲあったなぁと思ったり(やっぱりエロゲの話になる)。


そんな話はともかく、非常に「面白い」展覧会なので京都近郊に住んでいる人はぜひ是非行くべき。5月11日まで。

山本博文『江戸お留守居役の日記』

三代将軍徳川家光から家綱の時代、萩藩(長州藩)江戸屋敷留守居役として活躍した福岡彦右衛門の日記から、幕府と大名の関わり、そして藩士たちの江戸における生活の実態を描き出した興味深い一冊。これまでにも、幕府の直参である御家人や旗本の江戸生活について書かれた本は何度か目にしてきたが、国元に本来の住居を所有し、大名藩邸で仮の集団生活を送る藩士たちの姿について書かれたものを読むのは初めて。おそらく私が不勉強なだけだろうが……。
本書の背景となる家光の時代は、幕藩体制においてひとつの画期であった。相変わらず改易・減封される大名は後を絶たなかったものの、その原因は法令違反・軍事的理由から世嗣断絶によるものへと比重を移し、「万事江戸ノ法度ノゴトク、国々所々ニ於テコレヲ遵行スベキ事」(武家諸法度)とあるように、幕府による全国支配が確立されたわけである。
また、経済的な面においても大名は江戸や大阪、京都といった大都市との関係を深めていった。領地から得た年貢米を大都市に売り払い、そうして得た収入を参勤交代によって大都市で消費する、という循環構造。萩藩だけでも2000人以上が江戸の藩邸内で生活していたという。
今回、非常に面白いと感じたのは大名と町奉行の関係である。大名が自藩の藩士や領民に対する裁判権について高い自立性をもっているという点はよく知られていることであるが、藩士と江戸町人とのトラブルにおいて町奉行が調停に乗り出したり、あるいは江戸の作事における人足の斡旋を行ったりと多様な業務をこなしていたことは意外であった。武士が江戸や大坂を中心とした消費経済に巻き込まれる中で異なる階層の人々ともかかわりを持たざるを得なくなること、そして、その過程における様々な軋轢がよく描かれていたように思われる。オススメ。

江戸お留守居役の日記 (講談社学術文庫)

江戸お留守居役の日記 (講談社学術文庫)

武者小路実篤『友情』

主人公は杉子という女性を好きになるが、彼女は主人公の友人である大宮のことが好きで、大宮は友情と愛情の板ばさみで苦しむ、という話。大宮くん良い人すぎ。
武者小路実篤という作家は「自分の文学の出発点はトルストイだった」としながらも、トルストイの悩んだ「霊と肉の葛藤」という難問は非キリスト教国の住人らしくさっさと通り抜け、自然の肉体や欲望の解放をテーマとした人物であった。

トルストイの云っていることには確かに真理がある。しかし肉体を有することにまた僕は人生の意味があると思い、トルストイは偉いが、自然はなお偉いと思わないわけにはいかなかった」

『友情』の構成というは、夏目漱石の『こころ』とよく似ている。しかし、その結末は全くことなるわけで、それは義理や人情といった旧来の価値観以上に個人の可能性や人間性を信頼する、白樺らしい楽観性に由来しているのではないかと僕は思う。
ちなみに、この時期の武者小路は宮崎県で「新しき村」という開拓村の建設を始めていた。彼が理想とし、この村で実現しようとした「皆がつまり兄弟のようになってお互いを助けあって、自己を完成する」ための社会は、まじめに働く人間と適当に働く人間の分裂、ひとりの女性の奪い合いといった人間的な対立を経て、やがて多くの人々が村を去っていくこととなった。武者小路自身も6年後には離村している。
大正10年に『友情』が重版されたとき、彼はこんなことを書いている。

「この小説は実は新しき村の若い人達が今後、結婚したり失恋したりすると思うので両方を祝したく、また力を与えたく思って書き出したのだが、かいたら、こんなものになった……(中略)……新しき村でこういうことが起こったらどうなるのかはまだ自分は知らない。しかしどっちにころんでも自己の力だけのものを獲得して起き上がるものは起き上がると思う」

友情 (新潮文庫)

友情 (新潮文庫)